ゲームの練習をしている。
練習をしていない時はプロのリーグを見たり、練習方法の動画を見たりしている。
それでもわたしはとてもよわい。
つよい人たちにすぐやられてしまう。
つよい人たちはこのゲームを何年もやっている。
わたしはまだ2カ月だ。勝てるはずがないんだけれどそれでもすこし落ち込むし、ちょっと腹も立つ。
このゲームを10年続けることが出来ればそれなりにつよくなることができるだろう。
でも10年もできるだろうか。なんだか飽きてしまいそうな気もする。
練習を続ければ続けるほど無力さが際立ってきて、やる気が削がれ、闘志が削られ、どんどん弱くなっていく。
こんなことを続けていて何になるんだ。もっと他に有意義な時間の使い方があるんじゃないか。
木彫りの仏像を彫ったり、風呂場を掃除したり、爪を綺麗に磨いたり、そういうことに時間を使った方がいいんじゃないか、そんな実利主義的な考えも浮かんでくる。
それでも、絶対評価的な成長という観点から考えてみるなら、最初のプレイよりはるかに今の方が上達しているということを理解してもいる。
結局、どんなものごともいきなり上達するということはなく、日々の地道な積み重ねしか上達する方法はない。
上手くなりたい、と思うことがまず必要で、そのモチベーションのためにはある程度の想像力が必要になるんじゃないかと考え始める。
なぜゲームをするのか、楽しいからだ。敵に勝つと楽しい。敵に勝ちたいと思えば練習は必要だけれど、その練習のためには、この練習自体が楽しい結果につながるというビジョンが必要になるのだということに気がついてきた。
想像力なんだなあと思う。
練習をすれば強くなれるはずだという想像力。練習をすることによって今より自在に動けるはずだという期待。そういう思考のルートが必要になる。逆に、練習したって無駄だ、という想像をしている限り練習は苦痛しか生まないし、それは主たる動機の楽しさを完全にスポイルする。
かっこいいプレイングをして華麗に敵を屠る想像が、他のどんな要素よりも先立っている必要がある。すべての行動というものは、肯定的な生産的な想像の元に生まれるものだろう。
練習をすることや、ゲームを続けることで楽しいことが起きるという想像力。そういうものが必要なのだと思う。
好きか嫌いかという要素もたいせつではあるにせよ、楽しさや気持ちよさという、よりプリミティブな感情こそが、物事を続けるための前提なのかもしれない。動機はシンプルな方が強度が高い。
今よりすこしはマシになるかもしれないという想像・希望。その感覚にフォーカスしてしばらく過ごしてみたいなと思っている。この感じはもう、なんていうか、はずかしさすら感じるけれども、むき出しの青春の只中にある。