どこにもいない

 スクリーンに羽ありみたいな大きいのがいる。
 いた。ゲームをやっている時にみつけた。モニターの奥にスクリーンがあり、そこにぶつかっていた。何度かぶつかっていた。私はゲームをやっていた。いつものゲームだ。今日は少し調子が悪い。調子が悪いのは基本的な練習をしていないからだ。練習をしないままゲームをするとあまり調子がよくない。敵に弾が当たらない。敵はするする動く。すぅーんと動き回っている。私の動きはとても遅い。このゲームにあまり慣れていない。このゲームを始める年齢がすこし遅かったのかもしれない、というのは言い訳かもしれない。高齢者もこのゲームをしている。私に足りないのは単純に練習であり、経験だと思う。大体のものごとがそうだ。単純に練習であり、単純に経験だ。どうしたらゲームが上手くなるかな、と考える時、ゲームをすれば上手くなる、と思う。ゲームを続ければ必ずゲームが上手くなる。続ければ続けるほど上手くなる。一日に10分ギターを練習すれば上手くなる。けれど一日8時間練習すれば8時間分上手くなる。とても当然のことだ。1時間勉強すれば1時間分頭がよくなる。頭がよくなる? かどうかはよくわからないかもしれない。知識は増えるだろう。しかし頭がよくなるかどうかはなんとも言えない。まず頭がいいを定義しなくてはいけない。頭がいいってどういう人のことだろう。わからない。頭がいい人はたしかに私の人生にも何人か登場したと思う。けれどやはり彼および彼女達は時と場合によって頭がいい場面があるというだけのことで常在頭がいいという感じではなかったように思う。折尾さんは泣いていた気がする。よく泣かされていた気がする。でも笑っていたような気もする。よく笑っている人はあまり頭がよさそうには見えない。けれど折尾さんは頭がよかった。というか勉強が出来た。学年で一番頭がよかった。というか学年で一番勉強が出来た。いつも人の良さそうな笑顔を浮かべていた。眼鏡でおかっぱで鼻声だった。鼻炎だったのかもしれない。学年で唯一読書をするのが好きな人だった。というか読書をする人だということが判明している人だった。その頃、つまり私が中学生の頃、本を読むのが好きだという人はひとりもいなかった。と思う。折尾さんだけだった。私はほとんど読書をしたことがなかったけれど、読んだ本の中に好きな本は何冊かあった。山月記とか山椒魚とかだった。ああいう文学というのはとても変な話が多いと思った。山椒魚とかすごく変だ。意味がわからない。意味がわからなすぎて好きだと思った。それは今、つまり2024年の私も大体同じように思っている。というか本質的にはちょっと意味がわからないな、と思いながら読んでいることがあって、でももし完全に最初から最後まで理解することができる物語だったらあんまり好きになれなかったかもしれない。そこに未知の手触りや、生活していて感じたことのない奇妙さがあるから好きなかもしれなかった。あるいはその奇妙さは人生のどこかで感じたことがあるかもしれないけれど言語化することなく心の奥底にしまわれていた感情なのかもしれない。羽ありは姿を消したままで、しかし部屋のどこかには必ずいるはずだ。窓もドアも閉め切られている。逃げることは出来ない。必ず探し出し、殺す。俺は羽ありを探し出し、必ず殺す。二枚のティッシュでお前を包み殺す。圧殺する。それを私はする。私はそれをほとんど無感情に行為することが可能だ。しかし私は命について考えながら羽ありを殺すべきなのかもしれない。それは命なのだ。私とって羽ありは不快害虫かもしれないが、羽ありはただ生きているだけだ。私はただ生きているだけの羽ありを殺していいのだろうか。良くない気持ちになってきた。書きながらきちんと考えてみると羽ありを殺す気が引けてきた。可哀そう? 可哀そうなんかではなかった。ただフェアじゃない。対等に接していない。私が羽ありを殺そうとしたら、羽ありも私を殺そうとするがいい。そうでなければ気持ちよく殺すことができない。羽あり一匹分の引け目を感じてこのさきを生きなくてはならなくなる。これは私に根付いている騎士道精神だ。憐れみではない。相手が蚊だったら全力で殺すことに注力することできる。蚊は私を苦しめる。蚊は生きるために私を害する。私は蚊に刺されたくない。だから私は蚊を徹底的に虐殺できる。しかし羽ありはただ生きているだけで、羽ありは私を害さない。頭の良さというのは話し方のことかもしれない。知的な話し方というのはある。けれど知的な話し方が気持ちいい話し方と一致するかというとそんなことは全然ない。というか基本的には馬鹿っぽい話し方の方が面白く気持ちがいい。馬鹿っぽく知的な話をするのがたぶん一番聞きやすいから憲法を口語訳したりするのでしょう。折尾さんはよく冗談を言っていたような気がする。いつも笑っていたような気がする。そしていじめっ子の春洋によくいじめられていたような気がする。春洋と折尾さんはほとんど隣同士という距離に住んでいて、だからそれはいじめるとかそういうことではなかったのかもしれない。春洋はただ人との接し方がまったくわからなかったのもしれない。春洋はその頃、中学校で煙草を吸って停学になったり、進路相談の時に東京に行ってミュージシャンになると言ったりして学校では問題になっていた。今になってみれば慎ましやかと言ってしまってもまったく過言ではないようなどこにでもある、どこにでもいるちょっぴり問題児だった春洋は、今なにをやっているんだろう。そしてあの頃一番頭がよくて眼鏡でおかっぱでピンクのジャージを着ていた折尾さんは、今どこで何をやっているんだろう。折尾さんは親切で誰にでもフレンドリーに接し、人を笑わせたり、クラス委員になったり、そして時々はクラスでひとり読書をしていたりした。折尾さんの家は宗教の家だった。その頃、それは誰でも知っていることだった。時々思う、それがどれだけ折尾さんの性格に影響を与えたのだろう? そういう風に考えるのは失礼かもしれないと思い、私はいつまでも真実にたどり着かない。私はいつだったか、折尾さんと本の貸し借りをしたことがある。何を借りたのかは全く覚えていない。ミステリだったような気がする。私はお返しに中島らもの『超老伝』を貸したことははっきりと覚えている。超老伝ははちゃめちゃに面白い小説で、社会勉強にもなるし、ギャグのセンスも非常にキレているし、今も私のすごく好きな小説なんだけれど、女子中学生が読む小説ではない。決してない。決してないけれど、それはうっすら分かってはいたんだけれど、それでも私はもしかしたら、あるいは、本を読むのが好きな折尾さんならこの小説の面白さを理解できるのではないかと期待したのだった。折尾さんは本を返してくれる時、おもしろかったよ、といって笑っていた。そしてすぐにするすると机の隙間を縫って教室を出て行った。すぅーんと動き回っている。動き回っている。おそらく暗闇に潜んでいる羽ありも。私を銃撃する敵も。あるいは国の北でタクシーを運転している春洋も、すぅーんと動き回っている。時にすばやく、滑らかに。時にはぎくしゃくと奇妙に。われわれは動き回っている。頭のよさそうな動き方というのももちろんある。しかし頭の良さというものは身体性とはあまり関係ないものかもしれない。頭がいいというのは機転が利いたり、咄嗟の判断が素早かったり、知識を有効に活用することが出来たり、問題解決のために建設的な意見を言うことが出来たり、未知の発想を持っていたり、することだろう。そしてそのような人間は、常にそのような人間であるわけではなく、頭がいい側面を見せた後、すごく平凡なミスをしたりもして、だから完全に頭のいい人間というものはなく、それが当たり前であり、当意即妙なだけで、頭がいいという言葉の要件は満たしているとしてしまっても問題はないのだろう。世界中の人間がアインシュタインである必要はないし、“シーザーを理解するのにシーザーである必要はない”だ。さっきから右ひざになんかふわふわしたのがぶつかってきているな、というのは感じていたけれど文章を書いている最中なので確かめることはしなかったが、この5グラムくらいの風圧の正体はたぶん羽ありなんではないかと思っている。もしくは羽ありの幻覚を感じているだけなのだろうか。私はやつをみつけたら捕縛し、そして窓から放してやろうと思っている。こころがわりをしたのだ。私は残虐で無慈悲な殺戮マシーンになることが出来なかった。私は弱い。私は虫一匹殺すことができない、弱い人間だ。しかし虫一匹殺せないような人間が殺人を犯す世の中なのだ。弱い人間をあなどってはならない。今殺意のない私は、それでもつい何かのはずみで羽ありを殺してしまうかもしれない。虫一匹殺せない人だと思っていました、とテレビでインタビューされた隣人が応えるだろう。まさか羽ありを殺すなんて……信じられません。そういえば私は隣人の顔をはっきりと見たことがない。はっきりと見たことはあるんだけれど「2回ともまったく違う顔」だった。彼から見れば私の顔も違うのかもしれない。羽ありがみんな同じに見えるように、ゲームの相手をいつまでも覚えていられないように、われわれはほんの一瞬で不可逆的に変化し続けているのかもしれない。動き回っているのだから仕方のないことなのだ。するすると動き回っている。そして不思議なことに、春洋のことを思い出す時、私の記憶の中でいつも春洋は笑っている。