移動し続ける欲求と安らぎの発見

 正月気分で浮かれている。
 浮かれていてもテンションが上がっていない。テンションが上がる、ということが無くなっている。落ち着きが出てきたと言えるかもしれない。あるいはただ単に、年齢故の疲れなのかもしれない。どちらであろうが特に気にならなくなっている。テンションを上げようとも思わない。
 洗濯をした。洗濯をしている間は布団に寝ていた。私は洗濯をすると、自分がすこし偉くなった気持ちになる。自分で出した洗濯物を、自分で洗うということは、当然なのだけれど、その“当然さ”がむしろうれしい。そこにはプリミティブな生活のよろこびがある。社会は複雑怪奇で、社会的に求められる仕事というのは、私の行動と結果が直結していないものもある。自分がなんのために働いているのか、どんな意味があるのか分からないまま、命じられたことを実行するだけ。テレビのリモコンで電源ボタンをオンにすればテレビは点く、けれどどういう仕組みでテレビが点くのか、本当のところは誰も理解していないのと同じことだ。洗濯はいい。服を着る、汚れる、洗う、きれいになる。とても単純明快で、気持ちがいい。
 ヤフー基金というものをみつけて、先日の石川県の地震の募金をした。ネットからクレジットカードを通して簡単に募金が出来る。募金総額は私が確認した段階で2億7千万円だった。私はたったの1000円しか募金しなかったけれど、きっと、たったの1000円が積み重なって2億7千万円もの大金になったのだろうから、恥じたり、どうせ無駄だとか、思ったりしないようにしようと思った。しかしながら、私の1000円がもし着服されたり、不正な用途で使用された場合には、ぷんぷんしようと思う。当事者になってみると、色々なことを考えるようになるし、様々な感情が生まれる。それは第三者の立場では観測することが出来ない。
 食べ物を買いにスーパーマーケットへ行った。年始の賑わいが楽しそうだった。いつもの納豆・豆腐・にんにくの漬物・パックご飯の常用食品に加え、チキンカツ弁当、かき揚げ蕎麦、レッドホットフライドささみなどを買い、おやつにアルフォートプリングルスのサワー味なども手に入れた。大体いつも食べているものだけれど、いつも食べたくなるということは、つまり私の好きなものなのだろう。私の体は私の好きなもので構成されている。おもしろきことだ。更に電子煙草1個、ティッシュペーパー、歯ブラシなども購入した。好きな歯ブラシが絶版になったのか、売っていなかった。私は歯医者で売っているようなオーソドックスな形状の歯ブラシが好きだ。3列でブラシの高さが揃っているもの。色々使ってみたけれど、結局はシンプルな形が一番磨きやすい。
 帰宅してアルフォート食べながらベッドに寝転がると、天井の角にフタホシテントウが止まっている。ここ数日の間に現れた侵入者で、最初に発見した位置からぴくりとも動かない。死んでいるのだろうか、あるいは冬眠のような状態になっているのか、虫の生態には詳しくないのでわからないが、害も無さそうだし、居たければ居ればいいと考え、放置している。ただまあ、出来ればさっさと出ていってほしい。なんだか気になって、時々「まだいるかな」と天井を見上げてしまうから。
 スカイリムをした。2011年のゲームだから、13年も前の作品となる。その歳月に思いを馳せると、気が遠くなる。比喩ではなく、本当に気が遠くなる。頭の中にストローを差して神様が意識をちゅうちゅう吸っているような、脳の真ん中が冷えっとしてすこし痛いような、そんな感覚。でも、名作はすべて歳月を超越するものである。たとえば太宰治の本は60年前の本だが、今読んでもたしかにはっきりと面白い。聖書が書かれたのは3500年ほど前らしいけれど、今でもそれを研究している人たちがいる。名作は時を駆ける。
 スカイリムの好きなところは、北国を舞台にしているところで、雪が降っている静かな山の世界であるところだ。私の原風景に似ており安らぐし、神話的なシナリオも素敵だ。
 ゲームをしているとどこかへ行きたくなる。ずっと前からそうだったけれど、最近ひとつの結論にたどり着いた。私は「どこかへ行きたい」のだ。そしてその「どこか」は、決して具体的な目的地とはならない。私は海へ行きたいとか、デパートへ行きたいとか、エンパイアステートビルへ行きたいとか、そういう風には考えない。常に「どこかへ行きたい」と考えている。つまり、それは移動し続けたいという欲求だった。逆に考えると、私には目的地があってはいけない。私は「どこかを目指して移動し続けたい」という人間だった。この結論に自ら驚いていると共に、安らぎを得てもいる。
 それがスカイリムを好きな理由の一端であることは、言うまでもない。