欲求と現実のジレンマ、どこかへ行きたい

 そういえば、天上の角にいるフタホシテントウは、死んでいるんだと思う。
 彼はとっくに死んでいて、それでも足の爪が壁の凹凸にひっかかったままで、だから落ちてこないのだろう。
 あれを見て何を思えばいい?
 死んでいるな。
 
 どこかへ行きたいという気持ちがとても大きくなっている。巨大風船のように。
 しかし私に行きたいところはない。提案しても論破される。結果、私はどこへも行きたくない、というよりもどこかへ行きたい気持ちだけが存在し、その「どこか」などこの世に存在しないのだと考えられた。しかし欲求として「どこかへ行きたい」はある。頭がかゆいな、と同じくらい現実的な欲求として。近所の温泉に行った。
 何度か行ったことがある温泉で、メインの客層は地元民の高齢者。どこにでもある施設なので、特に身構えることなくウエストバッグに手拭いを入れて出かけていった。朝10時の天気は晴れ、気温は7℃であたたかい。太陽の光を気持ちがいいと感じる。
 温泉に着き、下足箱に靴を入れ、券売機で入浴券を買い、受付でロッカーカードを貰った。
 服を着替え、かけ湯をした後、露天風呂に向かった。四角に切り取りられた空は青く高く澄んでいた。
 私は露天風呂にそっと足を入れた。足は湯の中の岩で滑った。お尻を岩に強く打ち付けて尻もちをついてしまった。その弾みで風呂桶が甲高い音を立てて転がっていった。露天風呂はただごとではない雰囲気に包まれた。私は「とてもいい天気だ」と呟いて風呂を出た。
 私は現在を生きるすべての人々に「いいかい、失敗なんてものは、すぐに忘れてしまうものさ」と言いたい。
 
 風呂を出てロッカーに向かうと、私の使っていたロッカーの付近が異様に混みあっている。狭いスペースに4人もの人間がひしめき牛のようにのんびりと着替えをしている。その輪に入って行くのはあまりにも気持ちが悪いため扇風機にあたって時間を潰していたのだけれどそれもなんだか馬鹿らしくなり、せめて服だけは取り出して空いているところで着替えようと考えて私のロッカーの前まで行くとそこにいたおじいさんが邪魔で服が取り出せない。「すみません」と声をかけるとおじいさんはすごく嫌そうな顔で「ちょっと待て」と呟いた。私は小声で「はい」と言って、本当におじいさんの横でちょっと待っていた。おじいさんはずっと不機嫌そうな顔をしてゆっくりゆっくりと着替えており、私が声をかけてから20秒後くらいに私のロッカーの前からどいた。私は服を取り出し、別な場所で着替えをした。それからふと「あのじいさんは何故私のロッカーの前からすぐにどかなかったのか?」と考えた。悪意があるような気がした。体の位置を少しずらせばそれでいいのに、なぜずっと邪魔をしてきたのだろう。歳を取って他者に嫌がらせをすることでしか自己を保てなくなったのだろうか。なんだかむかむかしながら自動販売機で牛乳を買いベンチに座ってうまうまと飲みながらぼうっとした。目の前を何人かが通り過ぎて行った。体の粗熱が取れた頃にロッカーに戻り上着を取り出そうと思ったら、あのおじいさんがまだ下着姿で立っていた。不機嫌そうな顔をして。
 ああ、悪意じゃなかったんだ、と私は思った。この行動の遅さと感情の切り替わらなさは「抱えている人」だ。すまないじじい、頑張って生きてくれと思いながら、上着は諦めて施設地下の食堂に向かった。
 
 食堂でミニサラダ付きカツカレーを食べた。
 今年はカレー年だ。しかしそれより特筆すべきはミニサラダで、人生で一番美味いサラダだったかもしれない。この食堂の野菜は室内栽培の無農薬野菜というSF的な生産の仕組みで作られたものらしいのだけれど、とんでもなく新鮮で、しゃきしゃきして歯ごたえがよく、しかも野菜の青臭さが極めて少なくクセもなく、きゅうりもキャベツもパプリカも甘く、みずみずしく、こんなに美味い野菜があるのかと思った。ドレッシングが見当たらなかったのでソースをかけて食べたのだけれど、サラダだけ丼いっぱい食べたいとさえ思った。
 カツカレーは、おなじみの味だった。甘口のビーフカレー。いつものあれだ。国会図書館の上の階の食堂のカツカレーであり、競艇場のカツカレーであり、東京高等裁判所の地下にあった食堂のカツカレーであり、市民病院の食堂のカツカレーであり、府中運転免許試験場の食堂のカツカレーだった。誰もが一度は食べたことがある、誰もがそれなりにうまいと感じる、あのカレーだ。業界に配られているレシピでもあるのだろうか、この「普遍カレー」は絶対にはずれがないけれど、もちろん大当たりもない。いつでもあたたかく我々を迎え入れる。
 
 今年の入ってから二冊目の本を読み終えた。
 とてもよい本だった。
 もっと生きていたくなるような、死んだ人が書いた本。