2024年4月26日 23:11:36

 特に理由もなく心が落ち込んでいる期間がずいぶん長く続いており、この感じも生涯で何度か経験済みだったので、そのうち治るだろうくらいの気持ちでゲームをしたりyoutubeを見たりして、気休めに専念し一日を終える。という生活を続けていると、だんだん自己を保てなくなり、アイデンティティーがスライムになってくる。私は誰? という状態が常態となり、何者であるかということをつまびらかにしようとする気力もないのでより深くぼんやりとしたものになる。コギトエルゴスムの主体が薄く小さくなっている。我、思わない、ゆえに我はない。胸に空いた大きな穴から感情がぽろぽろこぼれていく。今日も何もしなかったな、と一日の最後に思う。何もしない、ということをするのは、生活の原理的に不可能なんだけれど、やはりそう思ってしまうということ自体がここでは問題となっている。
 飲みに行きましょうという誘いを断っている。先輩からの電話にも、出ない。対人関係における気力が底を尽いている。ただ真夜中に友人とゲームをする元気だけはある。ゲームをする気力だけは満ち満ちている。敵チームを銃で撃って倒して最後に生き残った人が勝ちのことな! というルールのゲームで、だから敵を撃つのが上手い人が勝つ。最初は一方的に敵のチームにやられてばかりだったけれど、最近は少し戦えるようになってきた。これはなんというか教訓というよりも真理のようなものなんだけれど適当でも続けていれば必ず上手くなる、という現象も原理的で、しかもこの現象はシンプルで強い。友人がオンラインにいない時、私はひとりで射撃訓練場にこもってひたすらダミー人形を倒すようになった。基礎的な練習であり、ある種の証明の途中であり、また自分を説得しようしているようでもある。ダミー人形を倒したところで誰も褒めてくれないしレベルも上がらないしポイントも貰えないけれど、練習はストイックなんかではなくめちゃくちゃ貪欲で利己的だと私は思う。私は基礎的な練習を何時間もひとりで続けることが出来て、しかもそれがやりたいから、練習の時間は私にとってとても大切で、きもちがよく、祈りのようなものかもしれない。
 ピンポンというアニメを全11話流し見した。原作のマンガのファンで、テレビで放映されていたころ一度全部見たけれどなんとなくまた見た。この作品の中で「勝つ気がないならやめろ」というようなセリフがあって、まったくその通りだなあと思った。ひとひとりぶんの人生を蹴っ飛ばすくらいの気持ちがなければスポーツをやっていても悲しいだけかもしれない。スポーツだけではなく、他のあらゆる行為についてもそのようなもので、たった一言で人の人生が変わってしまうこともあるくらい、世界のバランスは時々おかしいから、どーんと行こう。どーん。どんな人間の人生だって戦車みたいなものなのだ、たぶん。
 未来のために出来ること、というような意味の言葉が私はあまり好きではなかったけれど、最低限、その意味が理解できるようになってきて、というのも、結局人間は今この瞬間しか認識することができないけれど「未来のためにできることを今したい」気持ちは、その人間の認識とバッティングしない。あるんだか無いんだかわからない未来の心配をするのはあほボーイだけれど、あるんだか無いんだかわからない明るい未来を目指して行動することは健康そのものだ、ということが分かってきた。実利的な意味で理解しはじめた。明るい未来を想像するということ自体がまず気分がよい。これはとても重要だ。明るい未来というのはとても身近なことでよくて「プリンを買っておいて、明日の朝食べよう」というのが私の言う明るい未来の本質だった。明日のためにプリンを買っておくことを今する、そして今そのために気分がいい、という状態は、全然間違っていない。未来のために何かすることが今気持ちいいことなら、それはとてもいいことだ、ということを私はあまり理解していなかった。あほボーイだった。
 先輩から電話がきた。通話ボタンを押した。
「元気?」と先輩は言った。
「まったく元気じゃないですね!」と私は、元気に答えた。