現実と虚構

 よくわからない考えをよくわからないまま書くけれど、音楽は現実寄りの芸術で、絵は虚構寄りの芸術で、文芸は現実寄りの芸術で、造形は虚構寄りの芸術で、という風に、芸術作品・エンタメ作品・創作物には、現実寄りの物と虚構寄りの物があるような感じがするなあと、なんとなく思っていて、例えば音楽を聴いていて、宇多田ヒカル椎名林檎を聴いていると「これは現実のぼくをパワーアップさす力があるな」という風に感じることがある。絵は、マンガもそうだけれど、たとえば藤子F先生の作品を読むと「これは想像力のぼくをパワーアップさす力があるな」という風に感じることがあり、現実の力を摂取し続けると虚構の力が弱くなり、虚構の力を摂取し続けると現実の力が弱くなる、みたいなことが起こるんだけれど、最終的にどちらの力も己のうちにあったほうが生きて先に進む力になる。
 新しい環境に立ち向かわなければならない時は、現実の力がより多く必要になる。どうしてそうなのかは分からないけれど、ぼくは緊張するシーンや、何か心に負荷がかかりそうなシーンでは音楽が必要になるし、そういうストレスがある時には虚構的な力のある作品より、現実的な力のある作品を自然に選んで摂取している。つまり仕事が忙しくなってくるとアニメやVtuberやフィギュアの価値が己のうちで減じる。どうしてそうなるのかはよくわからないけれど、そうなる。おそらく音楽や映画の現実的な力を持つ作品は摂取後すぐに、その作品のもつ価値観がインストールされ、ぼくを現実世界に馴染みやすくしてくれるのだろうと思う。作品世界を追体験することでぼくは現実を相対的に「安く」している。円高ドル安みたいな感じで、現実安虚構高状態にしている。現実安の状態では、ぼくは現実世界に不必要な価値を感じない。ショックや過剰なよろこびを感じないように価値観操作を行っているのではないか。よくわからないけど。
 現実が安定してきて乗り越えるべき壁がなくなってくると、今度は虚構が必要になってくる。虚構らしい虚構は想像力を刺激する。想像力が駆動するためにはある程度の安定した環境が必要なのだろうと思う。あるいは安定した環境が、安定状態を打破し人間を生物的な探索状態に移行しようとして、その思考の材料として虚構的虚構を求めるようになるのかもしれない。要するに暇になると虚構的な力が必要になってくるのだけれど、その状態がいわゆる「なんか面白いことないかな~状態」であって、その面白いことを探している自分を、虚構的な派手な物語に投影しているんではないだろうか。どちらにせよ作品がぼくの命を助けてきたことには疑いがない。
 まったくどうでもいい話なんだけれど、組み分け帽子を被ったらぼくはレイブンクローに入れられるんだろうなと思う。で、レイブンクローの雰囲気に全然なじめなくて、結局ハッフルパフの友達とばかり遊んでるんだろうなと思う。そういう想像は、ぼくにとっては現実的だ。よくわからないけど。