真夜中のセルフびんた

 目覚めないので苦痛が欲しい。
 窓を開けて電子煙草を吸っている時、そんな考えが浮かんだ。ぼくは勿論、目覚めていて現実に立ち、思考し、そして味のない煙をすすんと吸い込んでいるわけだから、目覚めたいと思うことが既に矛盾しているのであるが、どうやら苦痛を得ることで、もっと目覚める。と考えているようだった。
 
 じゃあ試してみるか、と両頬にびんたをしてみた。ぱしん、ぱしんと乾いた音が真夜中の部屋に木霊した。痛くなかった。痛くないということは、もしかして夢の中にいるのではないか、と一瞬思ったけれどそうではなく、ぼくがただ痛いのが嫌なのでびんたの加減をしてしまったのだ。どういうことなの。苦痛が欲しいんじゃないの。と自問すると、痛いのは恐いな、と自答が返ってきた。苦痛は欲しいけれど恐いのは嫌ということなのか。ずいぶん複雑な精神をしている。でも恐くても、力いっぱいやらないと痛くないよ。と自問してみると、じゃあ勇気を出してみようかな、と自答が返ってきた。よし、やってみよう。ぼくは勇気を出して、右手で右の頬をびんたした。さっきの倍くらいの力でびんたした。すると音の高さが全然違う。ぱしん、なんて地味なものではない。ぱちぃん! になった。ドラマでヒロインが主人公にするようないい音がした。隣の部屋に聞こえるくらいの音だ。痛かった。痛かったので、笑ってしまった。何を、しているのか。ぼくは真夜中にひとりで、一体何をしているというのか。気がふれてしまったのではあるまいな。いや、そうではない。おなかが減ったらパンを食べるように、目覚めるためのびんたはむしろ普通です。と自問自答をした。それで、痛みを得て、目覚めたのかというと、まだ足りないようだった。びんた一発くらいでは、全然目覚めないものなのだ。それくらい、ぼくは目覚めていないのだ。よし、もう一度だ。ぼくは左手で、左の頬を打った。すこしずれて、鼻に当たったのが余計に痛かった。痛かったので、笑ってしまった。これをお読みのあなた、もしよかったら、自分の頬をぶってみなさい。笑うから。二発目でも目覚めなかったので、三発、四発と回数を重ねた。すると驚くことに、四発目で目覚めてきた。人間というものは、やはり痛みで目覚めるものらしい。
 
 ぼくは最近、とても穏やかな生活をしている。ストレスとは無縁の、ひどくのっぺりした生活だ。かつては会社に勤めており、多大なるストレス・苦痛を与えられていた。それは社会に与えられた受動的な苦痛だった。だからかつてのぼくは、知らず知らずのうちに目覚めていたのだ。寝ぼけたような精神でいることは許されなかった。今、ぼくは自ら苦痛を得る必要がある。ストレスや苦痛は、もちろん恐いし、嫌なものだ。しかし苦痛のない無感覚な生活というのも、奇妙に息苦しいものなのだ。