言葉のちから

「ばか」と言われるとムカッとする。
「すごいね!」と言われるとやったーとなる。
 言葉の力である。
 
 ぼくのあたまの中は言葉でいっぱいである。
 自分の言葉も、他人の言葉も、本で読んだ言葉も、動画で聴いた言葉も。
 さまざまなことばが渦を巻いている。
 観察してみると、一番多いのは、やはり自分の言葉である。
「しんどい」「つかれた」「どうでもいい」「命が薄い」といった言葉が、最近は多いようである。
 実際、しんどいしつかれているしどうでもいいし命が薄いからこのような言葉が発生しているわけである。
 しかしながら、この自然発生的な言葉が、実はぼくの心理状況を主体的に、言葉の意味へ誘導しているのではないかと、ふと思いました。
 ぼくが疲れているから疲れたという言葉が発生したという事実を認めつつ、疲れたという言葉自体がぼくを余計に疲れさせているのではないか、という仮説です。
 どうしてそういう仮説が生まれたのかというと、冒頭の二行にその根拠があります。
 ――「ばか」と言われるとムカッとする。
 とても直感的で、実感的な、人間を生きてきたことで得た体験です。
 このとてもシンプルな言葉の力を、ぼくは、ぼく自身に対して、無思慮に行使していたのかもしれない。
 仮説を証明するには、実験するほかありません。
 ぼくは自分自身を用いて、言葉の実験をしました。
「しんどい」「つかれた」「どうでもいい」といった言葉を、すべて「最高!!」に変えてみました。
 朝目覚めた瞬間に浮かんでくる「寝たりない。疲れている。またくだらない一日が始まる。もう充分だ。ぼくは何もしたくない」という言葉を「最高!!」「最高!!」「最高!!」に変えてみました。
 すると、なんだかすべてが馬鹿らしくなって笑ってしまいました。
 疲れているのに「最高!!」だなんて、あほらしいですね。
 しかしながら、あほらしいという気持ちになったこの事実が、ひとつの解です。
 言葉の力で、自分の気持ちを変えた瞬間です。
 
 なんだか自己啓発本のような書き方になってしまったのでここから文体をでらりと変えていくことにするけれど上記の現象はたしかにぼくに発生した現実であり、ある意味ではみんながやっている心理学的な作用なんだと思う。これからもぼくはしばしば「最高!!」「最高!!」で心の言葉を黙らしてみようと思ったりした。言葉によって現実を変えられるなら良い現実に変えるのがいいに決まっている。自分自身に「ばか」ということに何の意味があるのか、自分自身に「最高!!」といってやるほうがあほらしくて素敵じゃないか。
 
 今日は休日。
 ゆっくり目覚めてスーパー・マーケットに買い物へ。
 スーパー・マーケットってなんでスーパー・マーケットって名前になったんだろう。ハイパー・マーケットとかビッグ・マーケットとかにしなかったのはなんでだろう。それに、巷ではスーパー・マーケットのことを「スーパーに行く」などと省略して呼ぶけれど、スーパーに行くという言葉はよく考えてみると変だ。「すごい」に行くってなんだ。what? それにスーパー・マーケットはたくさんありすぎて、おそらく言葉が生まれた当時にはあったであろうスーパー感はもはやない。
 お昼ご飯は「生チョコフランスパン」と「10種の野菜もりもりサラダ」だ。最近はものすごく物価が上がっていてスーパー(?)の商品でさえお高い。セイジョウイシイでもないのにお高い。高いなあと思いながら商品を買うことの憂鬱。第三のビールの税金が上がり、生ビールの税金が下がったのだとニュースで見たけれど、それは一体なんなんだと思う。そもそも第三のビールが発生したのは生ビールの税金を逃れるための苦肉の策だったはずなのに、その税金を上げてしまったら逃げ場がなくなってしまうではないか。貧乏人の俺たちを包囲する税金・税金・税金! 庶民よ、立ち上がれ! ビール一揆だ!
一揆! 一揆! 一揆! 一揆!」
 ここで政府が一言「一揆は体によくないのでやめましょう」
 最高! 最高! 最高!
 
 ジーンズを捨てた。10年くらい履いていたエドウィンジーンズだ。それほどかっこよくないけれどジャージ生地で履き心地がよいので、それなりに履いていた。最近はバイクに乗る時用の服として重宝していた。バイクに乗る時はそれなりに頑丈で、かつ動きやすい服がいいので、ぴったりだった。しかし、使い過ぎて左ひざに穴が空いてしまった。大きな穴ではなく、細かい小さな穴が何個もぽつぽつと空いていて、なんとも貧乏くさいというか、ぞっとする感じの気持ち悪い穴の空き方だった。もう充分使ったのでいいかと思って捨てたわけだけれど、10年、10年も履いたんだよなあと思うと気が遠くなる。たしかぼくが東京に来た直後に買ったものだ。あの頃も、今も、色々ある。その場面のひとつひとつにあのジーンズがいたのか、と思うと妙な気分になる。ぼくは本当に10年前にあのジーンズを買ったんだろうか? ぼくは本当に10年前も生きていたんだろうか?
 ムーンスターの靴も捨てた。この靴は内側の布がすり減ってゴムがむき出しになってしまい、歩くたびに靴下と擦れて「きゅっ、きゅっ」とアニメのかわいいキャラが歩くときのような音が出るようになってしまったので捨てた。かわいいキャラだと思われてしまうと困る。ぼくはブルース・ウィリスのような渋いおじさんになるのだ。ブルース・ウィリスが歩くたびに「きゅっ、きゅっ」と鳴っていたらダイハードも台無しだ。
 そのほか、夏の間ヘビーに着回したクロップドパンツ二着とポロシャツ二着、シャツ二着も捨てる予定だ。ぼくはもう早く捨てたくてうずうずしている。楽しみですらある。たぶんぼくは、何かを捨てることが好きなんだ。身軽になるということに、ある種のポジティブな幻想を持っているのだろう。風呂が好きなのも、その関係かもしれない。
 
 アーマードコア6を買ってしばらく遊んでいた。
 ぼくが最もレイブンだったのは中学生の頃で、オタクな友人と毎日対戦していた。だが次第に「対戦」という概念に嫌気がさして、シリーズのほとんどは手つかずのままだった。久々にやりたくなって、というかフロムソフトウェアのダークな世界観と、おそらくソリッドでドライで独特であろうキャラクターのやり取りを味わいたくなって最新作を買ってみた。操作のコツはすぐに思い出したけれど、それでもこのゲームはとても難しい。アクションゲームは繊細なものだったなと思い出している。ロボットを組み立てる。パーツの有効性を検証する。どうしたら強い敵に勝てるのか考える。という作業と、自らの技術を磨くという作業と、そのふたつがうまくかみ合ってボスを倒せた時はやはり嬉しい。スポーツ的だと思う。シナリオのほぼ最後の局面で止まってしまっている。
 スターフィールドを買って、クリアした。プレイ時間は40時間程度。ベセスダの新作でしかもSFで舞台が宇宙となれば絶対にプレイしたいとぼくは思う。ただこのゲームは最新の技術がぎゅうぎゅうに詰まっているので、ぼくの組んだPCでは推奨スペックにすら達していない。なんとか動いているけれど、それども時々ハングしてゲームを落とすことになった。ロード時間がちょっと長いのもベセスダらしい。星々を探検するのはとてもロマンがあっていい。何もない星を宇宙服でずっと歩いていけるのが特にいい。本当になにもない。荒れ果てた大地。真っ暗な空に浮かぶ無数の星。とても好きなゲームだ。