一途に狂おしく静かに

 ガチ恋って言葉をぼくは素直に気持ち悪いと思うけど、ぼくに気持ち悪がられたところで構うこたないので好き勝手にガチ恋したまえ、というのがぼくの基本的な考え方で、ぼくは自分の考えをブログに書くけれど、ぼくは自分の考えなんてちっとも大事だと思ってないし、自分の考えが正しいとさえ思っておらず、しかし今、この瞬間にぼくはそれを書きたい、から書いているという程度の児戯よ。

 今日、知人の家でオタクのライブ鑑賞会をした。そのついでに知人の部屋を見せて貰った。ガチ恋の部屋だった。ぼくは生まれて初めて自分の目で完全なオタクの部屋を見た。部屋全体がキャラクターの色になっていた。ピンクと紫で部屋中が埋まっている様は祭壇なんてちっぽけなものではなく、教会だった。知人の家には猫がいて、猫は時々グッズにいたずらをするらしかった。フィギュアとか倒したら怒るでしょう、と聞いてみると知人は普通の顔で、怒らないですね。もう十数年以上好きなので、グッズが傷ついたぐらいではなんとも思いません、と言った。そこまで行けるものなのかって思った。架空のキャラクターに対して、そこまで愛を高めたというのか。ぼくが考える今の段階の愛の最高峰、というか成れ果ては縁側に並び無言のまま、Wi-Fiみたいに繋がる姿である。この人は人知れずそこまで磨き上げた。最初はきっとガチ恋だったんだろう、しかし今はとても静かな愛に変わったのだ。心理学の愛の成熟過程のモデルケースだ。ぼくはガチ恋という言葉に少し偏見があったみたいだ。考えを改めた。ガチ恋も育てれば何かになる。

 帰り道、一緒に知人宅に行ったnさんと話した。nさんもまた、最近はガチ恋勢化してきたと楽しそうに語った。家に祭壇らしき物が形成されてきたらしい。キャラクターの映像が始まるだけでわくわくしてきて、テンションがとんでもないことになるのだという。キャラクターの映像を見て一日が過ぎていくのだという。そこには戒律もなく無欲である必要もなく、文字通りの耽溺を繰り返して、生きるよすがとする。宗教的ではなく、むしろ他愛ない微笑ましい恋の姿である。それはきっと良い影響を及ぼすだろうと思う。何も知らずに死ぬよりは。

 ぼくにも推しはあるが、ぼくは恋ベースではなく尊敬ベースで推している。かわいいかどうかはあまり重要ではなく、心が奪われるかどうかなんかどうでもよく、気持ちいいかさえ無視で、ぼくが好きな人間かどうかで考える。だから、結局は推しを辞めることになる。根底に好き勝手に生きて欲しいという思いがあるなら、ぼくが推しに拘泥する必要性はまったくないからだ。価値観が自立してはいる、しかしぼくの推し方は面白味がまったくないなあと思う。狭量であるといってもいいのだろう。

 一途に狂おしく静かな愛が、たしかにこの世界にあることを知ることが出来てよかった。あまり酒も飲まなかったし、ライブ鑑賞会はみんなでテレビを囲んで寿司とか食ってだらだらして最高に楽しかった。ぼくの推しが画面に映るたびに名前を何度も叫んだらウケたのも嬉しかった。素朴なものだな、感性。同じものを好きな人達が集まって、同じものが好きじゃないとわからない言語で話すのは、ただそれだけで心がぽかぽかするものだ。今日はいい日だったよ。ああ、今日はいい日だった。一途でもなく、狂おしくもなく、静かでもない、男4人の馬鹿騒ぎの隣人愛も、この世界にはたしかにあるらしい。