無思考の続編

 ずっと前に姉に液晶ペンタブレットを貰ったのだけれど、ただのサブモニタになっていて全く使っていなかったので、たまには使わないともったいないなと思い、絵を描きました。

 

 

 何も考えずに描くのが好きで、最近そのことばかり考えているようにも思うのだけれど、絵もゲームも文も、結局は何も考えずに「やりたいな」と思った時にすばばばとやっている時が一番面白かった。何を描いているのかよくわからないし何を書いているのもかもよくわからないけれどわからなくてもよくて、分かっている状態でやろうとするとそれは練習になったり、修行になったりして、難しいなとか辛いなとかが発生して楽しさが減少した。練習すれば上手くなるけど、技術が向上するけれど、ぼくの「やりたいな」の衝動の中に技術を向上させたいなが含まれていないなら、やはり上手いとか下手とかの相対的な評価よりも、自分が楽しければそれをやっていいし、楽しい事をやっている時がたのしい。楽しくない時にたのしくないことをやるとやっぱり楽しくないなにかができて、それが悪いわけではないけれど、それは楽しくなさのにじむ愛想笑いみたいになってしまう気がした。下手な絵とか下手な歌とかを人は恥ずかしがるしぼくも恥ずかしかったし、自分が気持ち悪いなとも思ったけれど、私は歌が下手だというアイドルがステージの上で文字通り下手な歌を大勢の前で歌った時、すごくいいなと思った。また絵が下手な人が一生懸命模写したキャラクターの揺らいでいるけれど生真面目な線を観た時、ちょっと感動しさえした。好きだ。上手いとか下手とかよりも、楽しくないの方がより深刻にぼくをむしばんでいくように思う。やりたければやればいいしやりたくなければやらなければいいというのは言葉の通りで、やりたいことならやればたのしいし、たのしくなかったらたぶんそれはやりたいこととは違うんじゃないかとか、思う。そのやりたい、が他人に理解できるかといわれればできるわけがなくて、ぼくは世界にひとりしかおらず、またひとりだけの感覚を有していて、その全人間分の一の感覚にジャストな「やりたい」が、他人と被るわけがない。ぼくが世界で一番おいしいと思う食べ物は、だから世界で一番まずい食べ物であることだってあるんだろう。時々、Vtuberのライブで、音程が補正されてぴたりと正しいメロディーになっていたり、ダンスがプログラムで完璧すぎる音ハメの映像を観た時など、どれだけ下手でも、その人の声やダンスの方がぼくはうれしいなと思う。それはどういう欲望なんだろう。また人間の話になってしまいそうだ。動物も好きです。