無色の狙い

 一日が伸びたり縮んだりしている。
 リソースは有限だと分かっている。けれどどうやら無限の中にいるようでもある。パーマネントバケーションがここにあって、特に何をしなくても生きていけるということが実感として訪れてしまった。
 ただ布団に入って息をして、時々物をむさぼり、排泄をし、朝から夜になるまで読書をする。天気、曜日、日付、世間の事件、時の流れ、そういったものが認識されない。植物か昆虫のような一日は、伸びたり縮んだりしている。ある時には、時間が〇・一秒ごとに削れていく。またある時には、一秒が百秒ほどに延長されている。深窓の令嬢はきっと窓からそんな景色を眺めている。また病床から眺める天井も同じようなものなのではないかと思っている。監獄や修行僧は、また違うのだろう。そこには社会がある。
 体が健康で、誰からも見張られず、何の義務もなく、社会に属してもおらず、時間の流れの中を浮遊し、誰にも迷惑をかけず、誰にも迷惑をかけられない、認識もされず、認識をせず、生きていても死んでいても変わりがなく、何をしてもいいし、何をしなくてもいい存在。
 色あせて、すっかり透明になりました。
 ぼくは無色。
 
 読書をしているだけで一日が終わるので、特にここに書くこともない。書くことがないままに書き続けるのはぼくの一番得意なジャンルの執筆であるから、むしろ腕が鳴ります。
 考えること、思考、論理、理論、仮説、仮定、というものは、失敗しないためにある程度必要なのかなと思う。あるいは失敗から成長するために必要なのかなと。学ぶために必要であるのかなと。けれど、思考全般はぼくをあまり助けてはくれなかったなって、そんな当たり前のことが不意に起こりました。結局のところ、頭の中で何を考えようと、どれだけ重要な計画を立てようと、完璧な理論を打ち立てようと、それを実施・実行する筋肉がなければ、アウトプットするシステム・筋肉がなければ死で、そんな風に脳裏で思想、弄んでいると思想のための思想が筋肉を弱らせるという現象が起こり、考えるだけで満足してしまって結局何もせぬままに臥せりグレイブヤードのモンスターと成り果て、するとモンスターハンターたる時間が異形を亡き者にしようとやってきて、ポケットの中の未来・思想・計画は屠られ消えていった。そうして無数の思考がどこかへ爆散し、ただ体はベッドの上のぬくもりの中で死と同化して大洋を浮かんでいるようでした。だからむしろ、考える、思考・計画・理論・仮説を打ち棄て、ブルース・リー的な考えるな感じろ風の、思考を捨てて、勢い・慣性・流れ・勘・本能・なんとなく・風・水・無根拠・動物的・衝動等を用いて先に行動をしてしまう、インプットの前にアウトプットをしてしまう、計画の前に旅に出てしまう、仮説を立てるまえに実験をしてしまうということが、時には必要なのではないかと思われ、そうすると、霧散する思考ははじめから存在しないから、存在しないものは散じ様がないから、行動だけが残る。思考はアウトプットされなければ残らないけれど、行動はただそれだけで何かしらの価値があり、現実において0価値ではないために、残る。あるいは体の中に根拠として残る。観測者達の中に何かしら残る可能性もある。バタフライ・エフェクトは思考のみでは起こらないかもしれないけれど行動からはきっと発生し得る、ということがあって、つまりはお得だった。得々サービスプランが無思考による行動でした。行動だけがただひとつきっと誰かを救うことなんでした。ということを全く何も考えずにここにアウトプットしました。
 
 狡猾な狙いがひとつある。
 おそらくある種の人間はこういうことをやっているのではないかと思うけれど、休むっていうのは、精神や肉体を安静にして回復を図ることだけれど、回復の定義ってどこにあるんだろうって思っていて、人間は生きているだけで苦痛・疲労等の不快が必ずあるので、どれだけ回復したところで無駄なようにも思えるんだけれど、回復って「またやりたくなる」なのかなと考えていて、だから、やりたくなるまでが回復期なので、やりたくなるまで待てばいいじゃん、というのが狙いなのでした。
 肉体的にも精神的にもまたやりたくなる。という気持ちが出てくるまでは、むしろ何もしない方が上手くいくのではないか。やりたくない時にやりたくない事をやると、失敗が増えるし余計にやりたくない気持ちが増えてよくない。だからやりたくないことから一回休むことで、いつかまた体・精神がそれを求める瞬間がやってくる。その時にかつてやりたくなかったことをやればいいし、いくら休んでもやりたくないままだったらそのことは死ぬまでやらなくていいじゃん、ということも考えていましたね。それでぼくは今、まったく計画通りに休んでいて、心体モニターを毎日フル稼働させ、やりたいかな、やりたくないかな、という気持ちを測っています。その中でやりたいこと、できること、を選択して読書をし、ゲームは一日2時間、そして大量の睡眠を実施して、たぶん体および精神はとても回復してきていて、それはそうなんだけれど、いつにも増して不快感情がないし、肉体も疲れていないし、元気って言ってもよいくらいには元気になったんだけれど、唯一、脳だけが元気がなくなってきたのが誤算で、なるほどこうした安楽安寧平和無変化な生活を続けていたら、脳はすぐボケちゃうみたいだな、と思っている。人間はやることがなくなるとすぐボケてしまう。定年退職した人たちがボケやすくなるのは、おじいちゃんが亡くなったおばあちゃんがボケるのは、老人ホームに入った老人がすぐボケるのは、役割から解放されて何もすることがなくなっちゃったからだ。負荷を与えなければ性能を維持できない。老人をボケさせたくなければ何かしらの負荷を与えなくてはならない、だから子供はもっと老人に心配ごとを与えたほうがいいのかもしらんぜ、と何かに書いてあったのをにわかに思い出す。その考えを自らに適用させ、何かしらの負荷を与えなくては理想の無色ができないと考えたぼくは、
「血圧が上がる趣味って必要だよなあ」と知り合いに問うてみた。
「は? 低血圧なの?」と言われた。
 ぼくはかんらかんらと笑ったあと、脳と脳をUSBで接続できたらいいのになあと思った。