人間の営みに絶望し、山に向かって緑の中を歩いていると、乾ききった泥が固いブロック状に割れており、何かのきっかけで爆発した土くれが、カロリーメイトの束みたいに成形されて散らばっているのを見て、自然っていいなあと思った。小高い緑の丘の上から子供の、高いラの音で笑う声が聞こえてきて、そちらを振り向くと視界いっぱいの青空で、空から降ってきた声だった。道端のベンチにうなだれて座る老婆は黒い影のようにわずかに蠢いており、質量のある残像のまま景色にこびりついている。ぼくのリュックサックには、難燃性のブランケットと、テントになる雨合羽と、踏むと膨らむベッドが入っている。準備は整った。安直ではあるにせよ、考えた結果が人間は快感情のためにあらゆることをする、ということだった。ぼくはそれが人間の行動の根幹にあることが、今更ながらがっかりしてしまったのだった。そんな考えは中学生の頃にもう、誰かが教えてくれたことだったけれど、歳を経て違う解釈に辿り着くことだってある。気持ちも思考も輪廻して螺旋階段を上がるようにしてここではないどこか、私ではない誰かになっていくのだろう、とかもはや理屈も御託も面倒になって、シンプルでプリミティブな価値観だけを装備して冒険の旅に出ようとしている。逃避も戦闘行動の一部だったし、休まなければ戦うことができないなら、戦うことが出来ないように戦い続けることもあるのかもしれない。人間と非人間について、何年かぼんやり考えていて、主題はVtuberであることが多いのだけれど、Vtuberというのはシンプルに考えるとスーツアクターで、要するにキグルミなのだけれど、ではキグルミとは何かというと、非人間の象徴なのだよな。非人間そのものではなく、非人間のロール、代替物であり、つまり、依り代だった。Vtuber的なものというのは、つまりシャーマン的なものであるということで、それは邪馬台国の卑弥呼の昔からずっと存在していたんじゃん。人ならざる者の言葉をつかう者の末裔である、とぼくは考えている。そう考えると面白いから。彼・彼女たちが人間であるということは誰しもが分かっている。しかし彼・彼女たちが担っているロールは非人間な加工がなされた特別性を付与されている。アイドルもコンビニ店員も一緒だけれど、非人間というのはつまり人間が人間のままで非人間のロールをまっとうすることだ。そのロールは社会に必要だから存在している。人間が人間のままだと(ロールを与えられない状態だと)すぐ殺し合うからである。狭い部屋に三人閉じ込めると殺し合うんだって、なんかの映画で見た。みたいなことが現時点でのぼくの考えである。今日は特に書きたいことが思いつかず、そして体力も気力も最近はほんの少ししか残っていない。お風呂に入りながらいつものように本を読んでいたら、寝落ちして本がびしょ濡れになってしまった。この事故はごくたまに起きるから、風呂で読む本はそれほど重要な本ではないにせよ、本をいつも無事に保ってきた自信がことごとく失われ、ぼくは人間であるぼくがすこしあほらしくなる。もっと物語に耽溺したいけれど、物語というのは現実を生きるための力なのか、それとも物語は物語として別な次元で存在しているのか、そのことについて考えようかなと最近は考えている。とりあえず文字を書くことはいつでも出来るけれど、書いた言葉に予期せぬエラーが混じっているような感じがしてすぐ消してしまう。あまり良くない傾向だった。ノンフィクションを謳っているエッセイを買ったので読んでみたらエンタメだった。ああそうか、ノンフィクションとエンタメって矛盾しないんだ。悲劇はエンタメだし、喜劇もエンタメだった。殺人もエンタメでよく見るし、日常生活もエンタメでよく見る。エンタメ、快感情かあと思って振り出しに戻る。エンタメじゃないものなんてあるんだろうか。って思ってこの文章を書いている。