くやしい

 あまりくやしいと思わない。中学までは多感で、怒りや憎しみや嫉妬や悔しさや虚無や、漠然とした不安や不甲斐なさや、などを強く感じていたけれど高校生になってぼくが大嫌いだった友人が、よいふうに変わってからはその感情がかなり薄らいだ。なぜ他者が変わったくらいでぼくの感性が変わったのか、自分でもよくわからないけれどたぶん、それはわかりやすいモデルケースで、身近な人間と関わり続けることで自身がよい影響を受けたからだと思う。ある意味では、感情を諦めたともいえるかもしれないけれど。

 最近、ひさびさに悔しいと思っている。くやしい、負けたくない、もっと出来るようになりたい。そういう気持ちは、とても疲れる。でもその気持ちが行動の契機になっていることも感じている。がんばれ、とは思わない。もっと出来るはずだとも思わない。ただめらめらとくやしい。復讐でもない。嫉妬でもない。ただ出来ない自分にむかついている。この状態は、そんなに悪くない。むしろ無気力疲弊モンゴルベッドのフラット地蔵尊のいつものぼくでいるより、少しマシであるように感じている。なんであれエネルギーはエネルギーだし、なにしろ悔しさとは主人公の感情である。当事者の感情である。たいていの主人公は力が欲しいと願う。力がない人間がどうなるか、彼らはわかっている。すべての物語は喪失からはじまる。

 最近、毎日M1を見ている。漫才のショーレースで、面白いなあと思って見ているだけだったけれど、回数を重ねるうちに、ここにいる人たちはものすごく努力してきた人たちなんだということがわかってきた。彼らはよく、売れたい、という。売れたい、ウケたい、と口を揃えていう。売れなくてもいいやという人はおそらくひとりもいない。そんな人はM1に出ない。努力していないひとが一人もいない世界は、見ているだけで元気になってくる。なんであれ、そこにあるのはエネルギーだ。

 Vtuberが新しい曲を出した時、みんなに聴いてほしい、頑張ったから! と言った。そんなふうに、ぼくは思ったことがあるだろうか。みんなに見てほしい! 気に入ってほしい! 楽しんでほしい! そんな気持ちはずいぶん前に枯れていた。でも、そういうふうに思ってみてもいいのかもしれないと思う。そういう気持ちはなんか、商業主義の影に毒されて、ちょっときもいなと思うことはあるにせよ、ぼくの稚拙なくやしさは、新しい視点をくれる。