『ひとりもいない』
頭をかいて、心臓の鼓動を感じていた。
色々な思いが膨らんでくる。そういえば昨日の夢は……と考えかけて立ち上がる。
部屋の中は白い。汚い字で書き散らした警句。カーヴァーの文庫本。飲みかけのダイエットコーラ。ニュースを読むアナウンサーの声。
うろ覚えのラジオ体操をする。ダンベルで腕を鍛える。腹筋と腕立て伏せをする。積み重なった筋肉の疲労がにわかに痛む。
何かを食べようと思う。しかし食欲はない。
記憶が邪魔なのかもしれないな、とふと思い、ゲームを起動する。ゲームを消す。
すごく良いことを言っていた人がいた。その言葉を思い出す。意味を考えてみる。
戦争は続いている。
ぼくは顔のない人間のひとりだった。と気がつく。今もそうだ。と思い直す
何かにのめり込んでいる時、その価値観を自らに取り込むことになる。その価値観が思考の根幹になる。価値観がぼく自身になる。スポーツの本質がルールであるように。
ずっと何年も感じていなかった気持ちだ。感じる必要のなかった気持ちだ。
洗濯機を真上から見下ろしてみる。洗濯機は岩のように静かで、つめたい。
youtubeを起動して、面白そうな配信を再生した。配信を消した。
ヘリコプターの音が近づいてくる。だだだだ、音は低くなったり高くなったりする。
急いでパソコンの前に戻りスマホで30分のカウントダウン・タイマーを起動、文章を書きまくる。30分で3000字の文章が出来る。意味不明の文章。ぼくはそれを気に入る。
モンゴルには子供に変な名前をつける文化がある。変な名前で呼ぶことで、悪魔を遠ざけようとした。「名前が無い」という名前の子や、「くそまみれ」という名前の子がいる。ファニーに感じられる日本人のぼくを大切にしたい。そしてそこにシリアスを感じられる知的なぼくを大切にしたい。ひとつの物事に対して、何種類もの学びや感情を持っているぼくを大切にしたい。
ぼくが邪魔なのかもしれないな、とふと思い、ぼくはぼくを消してみる。
呼吸が楽になった。
ぼくがいるからぼくが苦しむ。ぼくがいなければ、ぼくは苦しまない。
悪魔も手を出せない。
『エッセイの書き方』
こうすればいいらしい、というなんとなくのイメージはあって、そのイメージに沿って書くことである程度の成果を出したことはあるにせよ、もっと正しい書き方があるということはわかっていて、しかしその書き方を学んだら、ぼくはこれから一文字も書けなくなるだろうなと思っていた。
エッセイが書きたいと思い、エッセイを読んで参考にし、ネットでエッセイの書き方を検索し、そしてある程度の型について理解したと思い、書いてみると、言葉が死んだ。
言葉が死んだ、と書くと芸術家っぽくて合掌する他ないのだけれど、言葉が死ぬという感覚はぼくに多大な不利益を与えるもので、書いていて面白くなくなる。書いていて面白くなくなると、書けなくなる。書くということの意義が失われる。書いて楽しいから文章を書いている。書いていて楽しいかどうかだけがぼくにとって大切だから、言葉が死ぬとぼくは書けない。書けなくなると、つまらない。くるしい。
型の中で、それでも参考にした作家さんは言葉を生かしている。参考にしたエッセイを4回書き写して、そしてその中に生きている言葉をいくつもみつける。気取った言葉を使っているわけではなく、作家のボイスが生で出力されているような肩の力の抜けたよいエッセイだけれど、その中にすばらしい言葉がそっと配置されている。
すばらしい言葉は広がる。時間を感じさせ空間を感じさせ感情を感じさせ文脈に馴染んでいて文章と文章の結びつきを強くし、そのすべてを包含し、読み手の心にしんみりと残る。どうしてそんなことができるのだろう。
型を突き破りたくなってしまう。パターンが窮屈で、従わされているように思ってしまう。パターンを使うのは自分であるはずなのに、パターンにぼくが操作されているような気持ちになる。しかし、型が持っている印象の力というのは強大で、何かを伝えようと思った時には便利な道具になるはずなのだ。それは正しいカレーのレシピのようなものだ。ぼくの書き方はおでんにカレー粉を入れてカレー風にしているだけなのだ。
書きながら、それはそれでいいかと思い始めた。
“エッセイは日記とは違い、人に読ませることを意識しなければなりません”と、ネットがレクチャーしてくれている。たしかにその通りだなあと思う。まったくその通りだ。一番大事な部分は、型とかパターンとか構成とかではなくて、その意識だったみたいだ。
人に読ませることを意識しなければなりません。すばらしい言葉は広がる。
でも、その意識が、その言葉が、一体何人の書き手を潰してきただろうか?
その功罪にも、思いを馳せるものである。