読書感想文にリベンジする

 読書感想文について、少し考える時間があったので、書き方を調べた。
 とてもよいサイトがみつかった。教育者向けの情報メディアらしい。こんな情報に簡単にアクセス出来てしまうだなんて。ひと昔前なら門外不出の秘中の秘として口伝によってのみ伝えられた神秘化された奥義ではないのか。なんというか、前にも書いたけれど仏陀のスッタニパータが1200円ちょっとで買えるのってめちゃくちゃ面白いと思う。ギャグみたいな世界に住んでいる。
 上記のサイトの情報を用いて読書感想文にリベンジをしたいと思う。
 以下、ネタバレがあります。
 
『Carver’s Dozen レイモンド・カーヴァ―傑作選 ダンスしないか? を読んで』
 
 この物語は、ある男の人が、家の中のものを全部庭に出して、売りに出してしまいます。そこへ若いカップルがやってきて、売り物の家具を使って遊びます。男の人が帰ってきて、カップルと酒を飲みます。それから男の人はカップルの女性の方とダンスをするお話です。
 このお話は、傑作です。翻訳者の村上春樹さんも、傑作だと書いています。何がどう傑作なのかというと、何がどう傑作なのか、一言で言えないところが傑作たる所以だと思います。カーヴァ―は、ミニマリズムで有名な作家なので、この物語は明確なクライマックスとか、分かりやすいオチとか、そういうサービスはありません。ただ、読み終わったあとに、ものすごく深い余韻が、頭の中でぐわんぐわん鳴り響いて、止まらなくなります。そもそもが、文学というものは、うまく言葉にできない思考や感情を、文脈によって、その本質を削り出し、彫琢し、その姿を浮かび上がらせるもので、一言で言い表すことができるなら、最初から文学などというものは、必要ないわけです。だから、このお話を説明するためには、このお話を読まなくてはなりません。このお話の全体と細部が、たったひとつの複雑な感情のために費やされているので、それを説明するためには、このお話をまるまる書き写す必要があり、それはつまり、このお話を読むという体験そのものであるということです。以上のことから、説明をすることはできないのですが、それでは読書感想文というものは何のためにあるのか考えてみますと、僕がどう読んだか、僕がどう解釈したか、僕がどう思ったか、などを記すものであるという、とても個人的なものなのですね。おもしろかったです。
 庭に売り物を出した男の人は、ひとり暮らしのようなのですが、かつてはパートナーの女性と暮らしていたようです。ただ、彼女が何者なのかは、書いてありません。どんな関係だったのかさえ、わかりません。彼女の存在を表している文章は、たったの二行です。
“ベッドの彼の側にナイトスタンドと読書灯、彼女の側にもナイトスタンドと読書灯。”
“彼の側、彼女の側。”
 この二行にしか、「彼女」という言葉は出てきません。男の人にパートナーがいたという明確な記述はこれだけです。しかしながら、たったそれだけしか書かれていないにもかかわらず、文章の端々に、彼女の存在を感じます。そして、明確には書かれていないのに、男の人が、めちゃくちゃ寂しいんだということが分かります。普通の小説だったら、パートナーとの別れのエピソードとかをドラマチックに書いて、それが小説の核になったりもすると思うのですが、カーヴァ―はしません。なんにも書いていないのに、それを表現してあるということが、カーヴァ―の特別な技術で、つまりミニマリズムです。行間を読ませる、という言葉が文芸にありますが、この場合は、行間こそが本体であるわけです。この、お話の中に不在の彼女は、不在のまま、ある意味で主役となっていきます。
 カップルがやってきて、庭の家具で遊びます。二人でベッドに寝転がって、テレビなどを見始めます。ずいぶんやんちゃなカップルだなと思いますが、アメリカの人はこうなのかもしれませんね。そこへ男の人が帰ってきて、カップルが欲しがる品物を、はした金でぽんぽん売ってしまいます。異常なほどの安値なので、カップルはそれを訝しみます。もちろん、訝しんだとは書いてありません。それを表すのはただ一行。
“娘は若者の顔を見た。”
 ただこれだけです。ただこれだけなのに、このカップルの間に何か複雑な感情が芽生えたことがわかります。どうしてそれが分かるのかと言うと、とても説明が難しいのですが、カーヴァ―が使用する「省略のコード」みたいなものがあって、ある瞬間に、それが突然パッと発動します。違和感のような、文脈的な不具合のような、突然何かが断絶したような、独特な感じがします。そしてその省略のコードは、表現にとって必要でもあるし、物語にとってキーとなる部分で発動するのです。つまり、ここでカップルの娘の方が、何かに気づいたということが、物語にとって重要です。鋭い人は、この辺りでなんとなくこの作品の仕掛け、システムに気がつくと思います。
 男の人とカップルは酒を飲んで、カップルはダンスをします。男の人がダンスしろよと言ったので踊りました。それからカップルの彼氏が寝てしまったので、娘の方と男の人がダンスします。
“「近所の人たちが見てるわ」”と娘の方が言います。
 そして男の人が“「連中はここで起こったことの一部始終を既に目にしたと思ってたんだ。でもこういうのはまだ見てないだろうね、うん」”と言います。
 何が起こったのかはわかりません。でも何かが起こったことを文章が明確に示唆していて、それを娘の方が理解します。それは何か大きな事件のようであり、そして男の人はその当事者であり、そのために家の中のものを全部庭に出して売っている、ということをすべて娘の方は理解します。理解したとは書いていません。ただ、“彼女は男の肩に頬を埋めた。そして男の体を抱き寄せた。”だけです。次が、このお話の一番のクライマックスです。
“「あなた、やけっぱちになってるのよね」”と娘が言います。ここで、僕は巨大なハンマーで後頭部をぶん殴られたような衝撃を受けました。なんでもない一言ですが、このお話の中で、はじめて内面に踏み込んだ言葉であり、これは娘の共感でもあり、娘の優しさでもあり理解でもあり、答え合わせを求めている部分でもあり、読者に対する問題提起でもあり、また娘の勘違いかもしれないギャグのようでもあります。この一言が何を意味しているのかは書かれていないので無数の読みができる思うのですが、明らかなクライマックスで、もっとも文学を感じさせる部分です。僕は、ここで娘が男の人に何か起きたと理解して、そしてただ優しくしてあげたい、共感してあげたいと思ったからこの一言を言った、という解釈をしました。面白いのは、男の人が本当にやけっぱちになっていたのかどうかは、最後までわからないということです。話はここでほとんど終わりです。
 最後に少しだけ、“彼女は会う人ごとにその話をした。でも相手に伝えられない何かが残った。”というような文章が続きます。書いてある通りなのですが、僕の中にも伝えられない何かが残ります。この小説が何を意味しているのか、テーマは何なのか、一体僕の中の感情は何なのか、伝えられません。手がかりの一つは、省略のコードだと思います。男の人と暮らしていたはずの女性、パートナー。僕は、物語に不在の彼女が、省略のたびに姿を現わしているように思います。それは、読者にしか見えない姿です。
 “娘は若者の顔を見た。”の部分は、娘の中に訝しむ気持ちが生まれた部分ですが、そもそも男性が異常な安値で家具を売るのは彼女の不在のためです。彼女とはおそらく、
 “「連中はここで起こったことの一部始終を既に目にしたと思ってたんだ。でもこういうのはまだ見てないだろうね、うん」”の部分で示唆されているように、ひどい喧嘩をしたのではないでしょうか。近所の人が注目してしまうくらいの。あるいは、彼女が何か大変な病気だったのかもしれません。詳細はわかりませんが、この一部始終という部分は、パートナーとの事件を表しています。そして、
“「あなた、やけっぱちになってるのよね」”と繋がります。ここで娘は、男の人のパートナーが不在であるということを理解しているわけではありません。ただ何かが起きたと分かっただけです。しかし読者には省略のコードによって、パートナーの姿が見えています。男の人は、何かが起きてパートナーと別れ、寂しくなってすべてをリセットしたくなって、家具を売りに出し、そして“やけっぱちになって”いる、のかもしれないな、と書かれていないのに読むことが出来ます。表層的なエピソードの狭間に省略された不在の彼女のための、「行間の文脈」とでも呼ぶべき、書かれていない感情の層が、最後の言葉で浮かび上がってきます。おもしろかったです。

 これは読書感想文なのでしょうか。読解しただけのような気になってきました。僕はこのお話に書いてあるような、すべてをリセットしたい気持ちになったことがたくさんあります。今までに10個くらいのブログを消してきました。それから娘の、いわく言い難い感情についても、やはり思い当たる節がたくさんあるように思いますが、そのような感情というのは名前がないので、どうも覚えていられません。おしい事です。
 この本を読んで分かったことは、分からないことを分からないまま書いても面白くすることが出来る人がいるということです。また、深い悲しみみたいなものを書かなくても、それを表現することは可能なのだなと思いました。
 これから自分はどうしていくか、どう生きていくかですが、それは流石に無理があるというか、ものすごく面白い小説だったことは間違いがないし、すごく好きなお話ではありますが、生き方が変わったとか、めちゃくちゃ影響されたとか、そういうのをこじつけられるタイプの小説ではないので難しいと思いました。でもそうだな、このお話の中にあるような名前のない感情を、忘れずに覚えていられる人に、ぼくはなりたいです。