駅を歩いていると、電車を降りた群衆が大挙して押し寄せる。
すごい数。ひとりひとりの顔を認識することさえ困難だ。
私は群衆を避けホームの反対方面まで移動しようとする。
その時、右斜め後方から誰かが一歩前に進む。
ベージュのコートを着た長い髪の女性だ。革のバッグを肩にかけている。両手はポケットに突っ込んでいる。顔を上げ、胸を張り、歩みはあくまでまっすぐだ。
行くつもりか。
女性は応えない。毛頭、私のことを認識すらしていない。彼女はまっすぐ進み続けると決めている。
分厚い人の波を彼女は切り裂く。武将のように豪壮だ。私は彼女の左斜め後ろに付き、数を恃んで障害物を押し潰そうとする集団に「彼女はひとりではない」と言外のアピールを続ける。
集団は相手がひとりである場合、「きっと向こうが避けるだろう」と考えるけれど、相手が二人以上だとそれを「ひとつの流れ」だと判断する。私が彼女の後ろにちらりと見えていることで、集団はたしかに無意識に「厚み」を直感する。相手を弾き飛ばすことが肉体的に不可能である場合、人間はそれを回避しようとする。
私は彼女のような豪壮・単騎駆けタイプの人間ではない。しかし、助手席に乗せておくとよい働きをする。そういうものだ。そうしていると、我々のような切っ先が、群衆を切り開いていることに気がつく人間が必ず現れる。するとどうなるか。私の後ろにも人がついてきて、更にその人の後ろにも人がついてきて、自然と蟻のような縦列行進を形成する。
“彼女の前に道はない。彼女の後ろに道が出来る。”
大河を逆流する一筋のオルタナティブストリーム。いずれこの流れは果てしなく広がるだろう。
私はそういう、自然に形づくられる、見知らぬチームがとても好きだ。
ガーディアンと呼ばれる人たちがいる。
電車の扉のすぐ横に立っている人たちのことだ。
ネットで彼らのことを「ガーディアン」と呼んでいる一派がいることを知ってから、私にその概念はインストールされたままだ。
電車に乗ってドアの横に立った。
はじめ、立っているのは私だけだったが、いくつかの駅で客が乗ってきて、私の逆サイドにおじさんが立った。
私は窓の外をクールに眺めながら「あっガーディアンズ結成!!!!」と思っていた。
おじさんはスマホをいじっていたが、目が疲れたのか、腕を組んで私と同じように窓の外を眺めはじめた。
スマホをいじっていないガーディアンズは守護者としてのレベルが一段階高くなる感じがしていい。お互いのポーズが「ポケットに手を突っ込む」と「腕を組む」の2パターンに別れているのも美的ポイントが高い。
お寺を悪しきモノから守っている金剛力士像の阿形・吽形もちょっと違うポーズをしている。
私はなんだかよくわからないが、とても満足した。
ガーディアンズは唐突に結成し、突然解散する。
今この瞬間も様々なガーディアンが生まれているはずだ。
子供のガーディアンや、女性のガーディアンや、お年寄りのガーディアンが。
彼らは実際に何かを守っているわけではない。
けれどその概念を知っていることで、私は少し楽しくなる。