ぎらぎら

 大型二輪教習の卒業検定に合格した。ほとんど緊張はしなかった。中免をついこの間取ったばかりなので、ルールにも不安はなかった。検定自体は、特に困ったこともなく、いつも通りバイクを走らせているうちに終了した。バイクは楽しいけれど教習所に通うのは大変なので、無事に終わってほっとした。今回は卒検を受ける人が多かったけれど、3分の1くらいが落ちたようだった。合否発表のあとの会議室はずいぶん広くみえた。免許証は平日でなければもらえないので、近いうちに免許センターに行かねばならない。少し面倒だ。

 千葉の花火大会に行ってきた。花火大会というのは、とにかく人が多いイベントだ。だから人の多さを楽しむべきなのだろうが(そしてたしかに子供の頃は、物珍しさから人の多さ、祭り感覚を楽しんだものだが)、東京という、いつでも人だらけの場所に10年暮らし、人間の大群が珍しくもなくなった今となれば、群衆は煩わしさしかもたらさぬものである。人が多い、という事象は、ただそれだけで社会の機能を大幅に低下させる。例えばトイレだが、何十分も並ぶことになる。花火会場の近くのスーパーマーケットのレジは、文字通りの長蛇の列となり、世界の終わりを想起させた。人が多いと人間は攻撃的になり、風紀が乱れ、喧嘩も起きればゴミも散乱する。駐車場は満車で道路は渋滞し、緊急車両もなかなか来られない。よくないことがたくさん起きるわけだが、それもまあ祭りの醍醐味なのかもしらん。わたくしはそういうのがあまり好きではないが。狭いスペースに青いレジャーシートを不器用に敷き、小さく座りながら夜空に開く大輪を眺めながら、やっとの思いで買った鴨ロースをつまみながらビールをすする。焼き鳥の匂いがする花火だった。火薬が燃えたこんがりした煙が流れてきて、空から降ってきた火の粉が目に入ってしょぼしょぼした。

 疲れ切って寝ていた。寝て、動画を眺めていた。常に暗い部屋で、安らかに世界から切り離されていた。切り離されていることが、つまりは休息の要なのだった。アイスを食べ眠り、おやつを食べ眠り、そうして1日のほとんどを寝ていると、意識が途切れがちになり、記憶力も認知能力も覚醒レベルも最低限になり、半死半生となるのだが、よく考えてみると、このような極限の休憩というものは、あまり社会的に許されていないように思われる。家族だろうが親友恋人だろうが、このような死んでいるのか生きているのかわからぬレベルの、深い休息を、きっと許さない。おそらく、心配される。もしくは、邪魔にされる。そのような休憩を、ゴリラの寝室のような休憩を、人間はするべきだと思う。そして他者は、そのようなふやけきった人間を、批判してはならぬ。

 RDR2は佳境を過ぎてエピローグとなった。今日中にクリアするであろう。