人間らしい喜び

 とりあえず、なんとなく書き始めた。
 とりあえず、なんとなく、は結局30分、一時間になる。
 だから、とりあえず、なんとなく、始めてしまうのがいい。
 5分だけ、という気持ちもよい。5分だけ、という気持ちは結局30分、一時間となる。
 はじめるのが億劫だ、という行動は、5分だけ、なんとなく、とりあえず、始めるのがいい。
 はじめるのが面倒だ、億劫だ、と考える前に、始めてしまうのがいい。
 面倒だ、億劫だ、と考えてしまったなら、それは今、やらなくてもいいことである。
 とりあえず、なんとなく始められることを、5分だけやってみよう。
 そういう気持ちで、生きてこられましたね。
 
 大型二輪教習も卒検を残すだけになり、ぼくは悩んでいる。
 というのも、バイクを買おうかな、買わないかな、と悩んでいる。
 普通二輪教習に通い始めた頃から考えているから、もう4,5カ月になる。
 大きな買い物をする時、とても悩む。うんと悩む。すこし頭がおかしくなるほど、悩みこんでしまう。
 腕時計を買った時は、2年ほど悩んだ。
 ぼくは調べる。
 ずうっと、ずうっと調べ続ける。
 どんなバイクがあるのかな、排気量は、エンジンの形式は、新車価格は、中古価格は、重量は、ハンドルのタイプは、馬力は、所有者のレビューは、またネットのレビュー記事は、試乗動画は、モトジムカーナでの走りは、バイク・カタログでの評価は、メーカーの紹介ページは、と、調べ続け、結局欲しくなくなる。
 ぼくは頭の中でバイクに乗っている。
 今まで乗ってきたバイクのスペックと、まだ乗ったことのないバイクのスペックを擦り合わせ、より想像をリアルに近づけていく。
 ぼくがバイクを調べるのは、ぼくが時計を調べるのは、ゲームを調べるのは、結局のところ、よりぼくの中の想像をリアルにするためなのではないかと思うこともある。
 ほんとうにほしいわけではなく。
 ただ想像したいだけなんじゃないかと思う。
 だから結局は、欲しくなくなるんではないか。
 もとより、ぼくの理想のバイクは、記憶の中にしかなく、それは再現性がない。
 どんな物を買ったとて、結局は玩具でしかなく、生活は既に完成してしまっている。
 無意味である。物質で得られる幸福は、いつもちっぽけだった。
 その無意味に喜びを見出すことが人間らしい喜びであるように思うけれど、その境地にたどり着くには、それなりの覚悟と忍耐と運が必要になる。
 ぼくはエレキギターが好きで、うんと持っていたし、高いエレキギターも持っていたけれど、今は一本もない。
 エレキギターを買うと、もっと違う音を出したくなって、新しいギターが欲しくなる。
 すると結局無限にギターを揃えなくてはならない。
 ぼくはエレキギターが好きだけれど、その物足りなさ、いつまでも新しい音に飢えていく感じに、苦痛を感じていた。
 おそらくバイクでもそうなる。
 もっと速いバイク、もっと曲がりやすいバイク、もっと快適なバイク、という風に、エスカレートしていくに違いない。
 その現象はよく「ステップアップ」という言葉で語られる。
 しかし、そんな論理的な段階的な計画的な言葉は、聞こえがいいだけで、本質的ではないような気がしている。
 つまるところ、もっといいやつがほしくなるだけだ。
 だから迷っている、買うべきか、始めるべきか、買わないべきか、ここで断ち切るか。
 こういう思考を積み重ねていくことも、もちろん苦痛を伴うのだけれど、ぼくはここで悩むことを放棄したくないなあと毎回思ってしまうのだった。
 何百時間も迷った答えなら、どんな結末だろうと、納得できる気がするからである。
 結局のところ、ぼくの一番の玩具は、この無意味な思考の層なのだろうと思う。
 ぼくの人間らしい喜びである。