素顔ライダー

 やっと大型二輪の予約が取れた。
 業務後、急いで退社し電車に乗って帰宅しヘルメット・バッグを担いで家を出て、再び電車を乗り継いで、まだ陽は沈まず暑さに洗脳されながら歩き、肌感覚で1ヵ月ぶりの教習所へ。
 見慣れたロビー。気怠さと緊張が綯い交ぜのいつもの雰囲気。老人から少年まで、様々な人間が時間を持て余しながら教習を待っている。どこまでも無言で、ぱたぱたと激しく音を立てているのはすべてスタッフ。排気音。まぬけなクラクションが遠くでくしゃみをした。
 ライダールームへ。普通二輪の時にシステムは把握したので一回目の教習でもプロテクターを着用して待った。時間が来るとインストラクターがやってくる。同じ時限の仲間は初めての教習所だったのでシステムの説明があった。ぼくへの説明は割愛。
 ヘルメットとグローブを着けて陽が沈みつつあるコースへ出ると750ccのバイクがある。大きい。大きいというか、太い。400ccのCBに比べると一回り太い。身がぎっしり詰まっている。スペックをwebで調べるとCBより30キロほど重かった。ぼくが乗ったことがあるバイクの中で一番重い。
 バイクのまたがり方から教わる。基本はとても大事だ。またがってみるとタンクも横幅が広いしエンジンの辺りもやはり太い。ニーグリップがとてもやりづらい。
 ぼくはセンタースタンドの立て方を忘れていてすこし笑われた。センタースタンドは使ったことがないので照れた。そんな基本的なことも知らないで大型二輪を取りにきたのか、と思われたら嫌だな、と反射的に思った。しかし基本的なことを学びにきたのだから仕方ないよな、と思い直した。
 新車のNC750Lは綺麗でエンジンの不調など全くなさそうだった。ほとんど傷もなかった。
 アクセルを開くと加速する。アクセルを戻すと減速する。ブレーキをするともっと減速する。これはバイクだなあと当たり前のことを思った。すこしでかくて重くてカウルのせいでタイヤの辺りの感覚がぜんぜんつかめないけど、これはただのバイクだ、と思った。普通二輪とあまり変わらない。大型二輪になったからといって空を飛んだり、爆発したり、コーヒーが出たりするわけではない。ただのバイクだ。
 加減速と八の字スラロームクランク一本橋の練習を続けざまに行ったけれど、インストラクターの方が妙にはりきっていて、煽られているような気分になった。インストラクターは普通二輪とは全然違う速度域で八の字をぐるぐる回る。バイクを倒しながら曲がらないと追いつけない速度だった。教習所でこんなにスピードを出したら怒られるのではないかと思ってびくびくしていたけれど、慣れるにしたがってぼくもがんがんアクセルを開けるようになった。左のカーブから右のカーブへ切り替わる時、重心が左から右へひらりと移動する。バイクは体の傾き通りに曲がるけれど重心がやや高く重いのでアクセルを使ってバイクを立てないと重力に負けて転びそうになる。倒れ込むバイクを体重移動や腕の力で起こそうとすると体力がすぐに無くなる。水泳は体に力が入っていると水に沈むから浮力を使うけれど、バイクは体に力を入れるとすぐに力尽きるのでアクセルでバイクを起こす。人間の力ではない、別の力を使う。
 インストラクターのけつを追いかけているうちにどんどん楽しくなってきてぼくはひとりでにやにや笑っていた。仮面ライダーだったら笑っていてもバレないけれど素顔ライダーのぼくのにやけスマイルはきっと不気味だったろうなと思う。でも楽しいから仕方ない。バイクはいつも楽しい。楽しくないことはない。原チャリでも大型でも同じように楽しい。これは自分で運転するジェットコースターだから、楽しくて当然だった。そしてこのジェットコースターにはレールが無いので、人間は簡単に事故を起こす。
 ぼくの後ろを走っていたお仲間は遠慮して走っていたのでインストラクターに「ちょっと遅いよ! もっと速く来てよ!」と思いっきり煽られていた。普段からぶっ飛ばしている人なんだろうなあと思った。お仲間はクランクでエンストして転んだ。ぼくはもうエンストしている人を見ても、転んでいる人を見ても、何も思わなくなった。おう、やってるな、くらいにしか思わない。自分でエンストしても慌てなくなった。公道で20回くらいエンストして、かなり危険なエンストも経験したし、そのたびに冷静にエンジンをかけて切り抜けてきた失敗の実績があるので、恥ずかしくもないし、必要以上に恐がることもないと思っている。
 一本橋で普通二輪の人の後ろに並んでいる時、ぼくのうしろのお仲間がエンジンをふかし始めた。ぶおーんぶおーんと野太い排気音が後ろから響いてくる。たぶん待ち時間が暇だったのでどれくらいパワーがあるのか確かめて遊んでいたのだと思うが、ぼくの前にいた普通二輪の人達は気が気ではなかったと思う。大型の人たちが煽ってきた、と思われるかもしれないからやめなよ、と思ったけれどそれを伝える手段も無かった。信号待ちなどでエンジンを吹かしている人がいるけどやっぱりよくないよなあと思った。必要であれば仕方ないと思うけれど。
 波状路をはじめて走った。一回目はハンドルを取られてエンストしてしまい、地面に足をついた。二回目は膝をやわらかく使った方が衝撃が少ないしバイクがまっすぐ進むことに気づいた。三回目で立ちながらニーグリップすることを覚えた。波状路はなんとなくスキーに似ている。小さい凹凸にタイヤを取られてハンドルを使うとバランスを崩すので、凹凸を吸収する方が楽だと思った。課題出来てますよ、結構乗れてますね、ひさびさにひやひやしないで見てられました、とインストラクターの方が言ってくれた。お世辞でも嬉しかった。
 教習が終わったあとはヘルメットとグローブを即座に脱いでロッカーからアクエリアスを出して飲んだ。夜でも暑い。重いバイクをひらひらさせただけなのに体が全部疲れている。
 大型二輪が難しいかというと、別に難しくないと思う。
 ぼくにとってとても大事なことなので、何度も何度も書くけれど、一番むずかしくて一番たのしいのは、最初の一回だけだ。
 あの時は、誰も何も教えてくれなかったし、ぼくも何も知らなかった。
 それでよかった。