事象C

 テーブルの上にりんごを置いて、目を閉じて1分待つと、りんごが消える。という事象Aが発生し、ぼくは事象Aの確度について考えていたので、同僚Xに事象Aについて尋ねると、私は事象Aを観測したことはないけれど、おそらく確からしい、と推論を教えてくれたが、どうも自信がなさそうだった。その時、クラスで一番物知りの同僚Yがやって来て、状況証拠から事象Aは確かだ、なぜならテーブルとりんごとが有り、それが然るべく時と場に正しく配置されたとき、りんごは確かに消えるようになっているのだ、と、自信満々に胸を張って教えてくれた。同僚Xも同僚Yの説明に納得し自信を得て、そうかそうだったんだ、納得したなあ! と言った。そして同僚Xと同僚Yはぼくに同じ説明を3回してくれた。ぼくは全然納得できなかった。同僚Xと同僚Yの説明は正しいが、説明が正しいだけで、本当に真実かどうかはわからないなあと思ったからだ。彼らは論理的に正しい説明が真実だと思い込んでいるだけではないか? 真実というのは、時々全然意味がわからない挙動をするものではないか? 同僚Xと同僚Yはぼくが納得するまで何度も説明をしてくれたので、ぼくは渋々納得するふりをした。それからテーブルの上にりんごを置いて実験してみた。1分間目を閉じて、それからりんごを見るとりんごは半分に割れていた。事象Bだ。ぼくは半分に割れたりんごを隠した。何を守ろうとしたのだろう。同僚Xにも同僚Yにも事象Bの事は話さなかった。ただ人間は、自分の信じたいことを信じてしまう生き物なのだと思った。それを事象Cとして記録した。