お菓子を配る

 今の現場にはお菓子を配る文化がある。前もあったけれど頻繁ではなかった。最近はよく貰う。仲の良い同僚にはよくエナジードリンクを貰うし(ぼくがいつも飲んでいる)、ろくに話したことがない人でも旅行などに出かけるとお菓子をくれたりする。すこし嬉しい。
 帰郷した際にお土産のお菓子を買ってきたので配り歩いた。今のぼくにはすこし荷が重い行動だった。お菓子を配る時、なぜだか少しだけ会話が発生する。あれ、どこか行ってきたんですか? とか。これなんてお菓子ですか? とか、他愛ない短い会話だけれど、知らない人とでもそういう会話が発生してしまう。嫌なわけではないけれど、気を使ってしまい多少疲れる。不公平の無いように部内の人全員に忍び足で近づき「お土産です……」と呟いて机にそっとお菓子を置いて逃げようとするけれどなかなか上手くいかない。外黒さんの故郷ってあっちの方なんだ! あのお祭り行ってみたいと思ってたんだよね! みたいな長々とした会話に発展してしまった時には自らの時間制限付きの業務のこともあり冷汗をかきながらの対応となった。早々に切り上げたくても相手は会話を盛り上げようとしてくれているのでお付き合いでほほほと笑って一歩ずつ遠のいていってフェードアウトする他ない。最近入ったばかりの事務の女性にお菓子をあげるとかわいい! とテンションを上げて対応して頂き非常に恐縮してしまった。別にかわいくもなんともない焼き菓子なのであるが、彼女としてはほとんど部内の人間と話してもいないだろうから多少は本当に嬉しがってくれたのではないかとか、余計なおせっかいを焼きそうにもなってしまう。お菓子を配ると嫌な顔をする人はひとりもいない。みんな笑ってくれる。それはとてもうれしいことだったし、シンプルな真実のように思われた。ぼくのような高強度の人見知りでもちっぽけなお菓子一枚でコミュニケーションがぐんぐん生まれてしまう。まったくおかしな話だ。
 
 三大欲求をはるかに超えるほどの、三大欲求以外の欲求って、一体人間のどの部分から生まれるんだろう。たとえばゲームがしたい、というめちゃくちゃ強い欲求を小学生のぼくは感じていたが、そのあまりに強すぎる欲求レベルは三大欲求が遠くかすむほどだった。食べず、眠らず、何時間でもゲームをし続けて無我に至りデジタル世界にジャックインする感じは、おそらく酒やドラッグと同じような欲求なのだろうな、と思い至る。時々、無性に猛烈にギターが弾きたくなることがある。1週間ほど耐えると衝動は去るが、やがて絵が描きたくなる。とんでもなく絵が描きたくなる。2時間くらい描くと衝動は収まるが、そのうち大変非常にスケボーがしたくなる。一週間ほどで衝動は消えていくが、頭の中が真っ白になるほどバイクに乗りたくなることがある。という風に、ぼくの衝動はぐるぐると輪廻してローリングしてループしている。実際にやることもあるし、やらないまま終わることもある。楽しさが増えると、つまり趣味が増えると、その分たくさんの衝動と戦うことになり、その衝動に耐えたり、衝動を実行するための手段を一生懸命考えたりすることが楽しくもあり、疲れの元凶でもある。もし趣味がひとつだけだったら、きっともっと楽だったんじゃないかなあと思うこともある。ギターの楽しさを知らなければ、ギターを弾きたいという衝動を我慢しなくてもよかったのかもしれない。しかしながら、たくさんのことをやりたいと思うことは、愚かであるかもしれないけれど、たくさんの断片からしか生まれない考えもあるんだろうなあとも思っている。