GWがおわった

 ゴールデンウィークが終わった。たのしかった。
 
 最初の三日間は故郷に帰っていた。
 新幹線に乗った。新幹線はほんの数時間でぼくを故郷へ運んだ。距離と移動時間が感覚的に合致していないので旅情というものはなかった。新幹線は純粋な移動手段だった。あるいはぼくにとって純粋な移動手段になってしまった。テンションが上がるようなものではなくなった。以前は、新幹線というものは贅沢品でありもっと味わうべき体験だったように思う。背伸びして駅弁を食べたりビールを飲んでみたりするような乗り物だったように思う。でも今はしない。耳にイヤホンをしてスマホで小説を読みながら通路側の席で半分以上の時間を寝て過ごしている。そのような無感覚新幹線になってしまったことに対してさえ無感覚になっている。よいとかわるいとかではなくなっている。うしろの席の3人家族がわーわー言いながらぼくの席をがんがん突き上げてきている。ゴールデンウィークで揺れている。
 東京駅の新幹線乗り場付近の雰囲気が好きだ。新幹線のホームもいい。旅人しかいないし、流れ者しかいない感じがいい。暇を持て余して待ちぼうけていたり、急ぎ足でトイレに駆けこんだり、楽しそうに連れと会話していて意識が散漫になっている人々がいい。ぼくは新幹線のホームをぶらぶらと歩き回り、狭い喫煙所で電子煙草を吸い、いつもより指向性の増した人々の間をすり抜けて歩いた。それは新幹線に乗る事よりもたのしかった。
 故郷では主に母と一緒に時間を過ごした。故郷ではいつもすることがないので、知人や友人に「田舎に帰ったらいつも何をしているの?」と聞いておいた。友人のひとりが「家の手伝いをすると親が喜ぶぜ」と教えてくれた。それはとてもいい案だと思ったので、母に何か手伝うことがあるかと聞くと強めに否定された。それはそれで風土というか文化だなあと思った。ぼくの故郷ではゲストを最大限にもてなす文化があり、ゲストに仕事をさせるのは一種のタブーなのだと思った。ぼくにもその感覚は根付いている。お客様には最大限にくつろいで頂きたいと思っております。しかし、その最大限のくつろぎによって、申し訳なさとか遠慮とか居心地の悪さを感じる人間もいるということを忘れてはいけない。手伝おうか、という発言の裏には、手伝わなければ満たされない欲求が潜んでいる。ゲストに手伝わせるのも高度なもてなしのひとつなのだと思う。ぼくは単純に母に喜んでもらいたかった。無理を言って仕事を探し出し、トイレのドアノブががたがたしていたのでドライバーで直したり、すだれを何枚か移動させたりした。そのほかはずっと置物のようにテレビを見て過ごした。テレビを見て過ごす以外にやることが特になかった。母は始終忙しそうにぱたぱたと仕事をしていた。その落ち着きのなさを懐かしく思った。そしてやはり、その後姿は悲しい感じがした。
 上京の日は母と町中をドライブした。ぼくは故郷の海に車を走らせ、岸壁の横で停めた。母は海なんて見飽きたよと言っていた。それは全くその通りだと思った。ぼくだってある意味では海を見飽きていた。20年以上、海の横で暮らしたのだから。家族でよく行ったデパートを訪れると、閉店のお知らせがあちこちに貼ってあり、ほとんどの店舗は白い壁で覆われていた。ここも終わるんだねと話した。ぼくは故郷のあらゆるものに対して感傷的になりすぎていた。感情的になりすぎていた。悲しみとか寂しみとかを感じさせる力が強すぎた。ぼくにとってそういうところなのだった。母は新幹線のある駅まで送ってくれたけれど、帰り道がもうわからなくなったと言っていて恐怖を感じた。もともと方向感覚が鈍い方だったとは思うけれど、以前にも増して弱くなっているようだった。近いうちにまた故郷に行くべきだろうと思うし、その時には10年以上帰っていない姉も一緒に連れて行かなければらないと思う。ぼくは大切なものはあとから気づく系の言葉がすごく嫌いだ。最初から気づいておけよと思ってしまう。そして大切だと思ったらつかんで離すなよ。大切じゃないならそれでいい。でもあとから気づくのはきもちわるい。
 
 上京してからの3日間はほとんどバイクの教習をしていた。二日かけて5時間の教習を受け、見極めまで全て修了した。結局、全ての課題で補習を受けることもなくクリアできた。一本橋を10秒くらいで渡れるようになったのでインストラクターの方にセンスありますよ、大型で待ってます、と言って頂けた。お世辞でもうれしかった。ぼくは大型二輪も補習を受けずにクリアできると思う。田舎道程度ならがっくんがっくんエンストしながら走れる自信はある。バイクの操作というのは基本的にゲームと一緒であって、アーマードコアをクリアできる程度の操作能力があれば運転は可能だと思った。というかアーマードコアの方が余裕で難しい。教習所は巨大なリアルシミュレーターであって本当の運転技術とは微妙に違う。本当の運転技術というのは初めての道をあらかじめグーグルマップで調べておく能力とか、道の脇から飛び出してくるかもしれない子供を予測する能力とか、ものすごくいらいらする運転をしている車の後ろを走っていても冷静でいられる能力とかのことであって、そういうのはバイクの運転技術とはまったく異なるものだと思う。判断能力とか決断力とか情緒安定性とかをすべて総合して運転適性であり、ぼくの運転適性はやはり最低の1だ。ぼくの運転適性度1なんですよ、と知人に言うと、自分の適性が低いって分かってるなら、そっちの方が安全じゃないですか? と言った人がいた。いい言葉だなあと思った。ぼくは運転適性度が1であることを忘れないようにしたい。
 バイクの運転は相変わらず楽しい。しかし運転に慣れてきたので楽しさにも少しずつ慣れてきている。あとは卒業検定を残すばかりとなったけれど、あの教習所に行くのがもうかなり面倒くさくなってきた。卒業検定に対する不安はない。落ちたらまた受けられるんだからなんにもリスクがない。
 
 最後の一日は洗濯をして食料の買い出しに出かけた。雨だった。食べまくって動画を見ながら寝ていた。久々にきちんと休んだ気がした。あまりにも過密スケジュールだった。ひと月くらい休みなく様々な人間と関わりすぎた。一日中布団に寝転がってモニタで動画を見ていると、故郷でテレビを観ていたのと同じことをしているなと思った。ひどく疲れた人間がすることというのは大体同じなのかもしれないと思う。それならひどく疲れた人間の回復の過程もやはり同じようなものかもしれない。食べることと寝ることは生きることの基礎であり、食べないことや寝ないことを続けることは出来ない。最低限の生を担保する行動であり、食べることと寝ることをおろそかにすると、基礎をおろそかにすると、つまり生を脅かす。食べて寝ることは最も大切な行動だから、ぼくのゴールデンウィークの最終日は理想的な休日だったのかもしれない。
 バイクの動画もたくさん見た。たくさん見ているうちに、モータースポーツ関連コンテンツの独特の頭の悪さみたいなものがすごく気になってきた。二輪も四輪もなんか、すごください。野蛮だし奇妙に男性的だし下品だ。そういう文化的な土壌があったんだろうということは容易に想像できるけれど、すごく浅いところで精神のレベルが止まったままのような感じがする。それはそれでいいんだろうけれど、かっこいいとか速いとか上手いとか下手とか面白いとか以外の価値観をぼくは見たい。ゲバラモーターサイクルダイアリーズ的な、サンテクスの夜間飛行的な、そういうものが見たい。バイクそのもの、あるいはバイクに乗っているわたし(=バイクライダーのかっこいいわたし)に焦点があたりすぎるとださいんだよなあと思う。もっと内面に踏み込んでいくような、バイク自体が比喩になっているようなものってできないんだろうか。マンガ版AKIRAにバイクのハンドルとヘッドライトを串刺しにしてる絵があったと思うけど、ああいうのは素晴らしいと思う。すごい。
 五月も引き続き大型免許教習に行くか、悩んでいる。ふたつほどイベントも控えている。おそらく忙しくなるだろう。それでも、何もないよりずっといい。

今週のお題「何して遊ぶ?」