変顔をする人

 先輩のOさんが変顔をしている。目を見開いてまん丸して、目玉をぎょろぎょろ動かす。シャイニングの狂った作家みたいな顔だ。ぼくはそれをみつめる。真顔で10秒みつめる。それから「怖いですね」と言う。彼は変顔をやめない。ぼくのリアクションに不満を抱いている。もっと面白いリアクションをしてほしいと思っているのだろう。しかしその顔は面白くない。というよりも、もう面白くない。彼はこの変顔を1日1回は必ずやる。多い時では7回ほどやる。そしてぼくはOさんと毎日顔を突き合わせているから、毎日この変顔を見せられている。どうしてOさんが変顔をするのか、ぼくには分からない。

「それは……なんなの?」と直球で聞いたことさえある。わからないからだ。なぜ彼は変顔をするのか? ぼくが真面目に聞くと、彼は変顔をやめる。その時には、ひどく弱々しく笑い、ちょっとした言い訳を言うこともある。謝ることさえあった。彼は自分の変顔が、ぼくにとって不必要であることを既に知っているということだ。しかし、それでも彼は依然として変顔を続けている。まるで何かの義務であるかのように、辛抱強く、執拗に変顔を続ける。

 Oさんはぼくを笑わせたいのだろうか? 違うように思う。そんなレベルではないと思う。あるいは、変顔を始めた当初の動機は、そのような他愛ないお茶目だったのだろう。しかし、きっともう今は違う。彼は、彼自身のために変顔をしている。変顔自体が意味を持ち始め、彼の中で重要な位置を占めるようになったのだ。それは彼のアイデンティティに関わる事柄かも知れないし、ストレスに関わる事柄かもしれないし、あるいは衝動と衝動の抑制に関わる事柄かもしれない。とにかく、他者に依存する価値としてではなく、彼の中に生じた何かに結びついていると思われるのだ。

 ぼくは、彼が自らの狂気の発露を、意図的に発散させようとしているだと考えている。誰しもの中にある狂気に形を与え、それ以上膨らまないように、注意深く散らしている。そんな風に見える。「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」という言葉の通り、彼の変顔はある種の狂人性を帯びている。彼が変顔をするから狂人だ、というわけではない。元々ある狂人性がたまたま変顔として発現したのではないか、とぼくは考えている。そしてそのような行動はあらゆる人間に見られ、特に面白くはないにせよ、大事なことだと考えている。

 トイレから出ると、彼は壁から顔だけを出して、人のいない廊下でひとり、変顔をしていた。うわぁ、怖い! もうやめた方がいいですよその顔! とぼくが騒ぐと、Oさんはとても嬉しそうに笑う。