流れる木の葉

 訛ってる女の子って可愛いですよね! と言われハッとした。可愛いのか、訛ってる女の子は。たしかにそういう価値観は風の噂で聞いたことがあるが、しかしなぜ訛りが可愛いのか一向に分からない。訛ってなくても可愛い女の子は可愛いから、訛ってるかどうかはあまり関係がないと思うし、訛ってるかどうかより何を言うかのほうが重要だと思い、たとえばはじめてその人に会った時に「私の弱点は肝臓です。狙わないで下さい」と言われたらときめくし、または「風が狭いところを抜ける時の音は祭りばやしによく似ている」などと言われたら、オヤッ、この人の感性は鋭いぞ、と思ったりするのだろうが、訛りでただ挨拶をされたとて何も感じ得ないというか、何を言うのかがやはり肝なのではないかと思い、可愛い女の子の訛りは可愛いですね! というと相手はゴハハッ、こりゃ一本取られたワイ、みたいな感じで可愛い女の子が言ったらね! と爽やかに赤面して笑ったのであったが、だんだんぼくは会話とは関係なくかわいい、かっこいい、おもしろい、の概念自体に苛立ってきた。かわいい、かっこいい、おもしろい、の概念・価値観ばかりではないか、世の中、なんかそればっかり言ってないか、ともやもやしてきて、そのファストな感じに理由なく食傷してきて、もっと褒め言葉、認めるべき価値観が豊富であってよいのではないかと思い、それを積極的にぼくは探し出し、曇りなきまなこで見定め決めてやるぞという気持ちになったけれど、たとえばぼくに話しかけてくれたOさんは、かっこよくもかわいくもないが、おもしろいので、おもしろいという大きな言葉に包括された人格像になってしまう。しかし、Oさんの真に個性的なところ、人格たらしめているところは、独特な「お気楽な自由さ」にある、と思う。張り詰めた自由だとかの思想的・言語的な枠から離れた、プリミティブで無垢な自由さ、突然鼻歌を歌ったりするけれど人の邪魔にならない程度の音量だったりする、控えめな自由さにあるとぼくは思うのだ。そういうところは、かわいくもかっこよくも面白くもないけど、いいなと思うよ、と結論が出た頃には小川を流れる木の葉のように会話は遠く流れ過ぎ、遠くで祭りばやしが鳴っているだけになる。