卒業検定に落ちる

 ぼくはすべての技能教習で一度も補習を受けたことがなかったので卒検も普通に合格できる、と思い込んでいたし、よしんば落ちたとしても何度でも卒検を受けられるんだからノーリスクだ、と、このあいだ書いた。それらが全て前フリとなって卒業検定に落ちた。ポジティブなのかネガティブなのか自分でもよくわからないけれど、ここまで順調に来て卒検だけ突然落ちる感じ、とても自分らしくていいと思う。
 
 卒業検定の説明会場には集合時刻の30分前に着いた。誰もいなかった。心配性が祟って早く着き過ぎた。会場は静まり返っていて、廊下を歩く職員の挨拶や足音が遠くから聞こえてくる。待つのは苦ではないが眠気が強かったのでテーブルに伏せて寝ていた。昨晩は上手く眠れなかった。ここ三日ほど睡眠の質が低下していた。GWの影響だった。
 集合時間になると会場には7人ほどが集まった。老若男女揃っている。インストラクターが現れて細かい説明をした。会場を出て階段を下りライダールームでプロテクターを装着して「卒検」のゼッケンを着け技能教習の方々の準備運動に紛れて運動を終えた。ライダールームは緊張感が漂っていた。受検者はみんな意味もなくうろうろしたり、肩をぐるぐる回したり、両足を手で叩いて気合を入れたりしている。ぼくはあまり緊張していなかった。どきどきして吐きそうとか、そういうことはなかった。ただすこしふわふわしていた。椅子に座って雑誌を読み、時間になるとヘルメットをしてグローブをつけて外に出た。受験者の金髪の女性と前髪メッシュの女性が緊張する緊張すると言い合っていた。どちらも大学生くらいの年齢に見えた。まだ若いのだし緊張するよなあと思った。でもここでの緊張はあまり意味のない緊張だよなあと思った。失敗しても誰に怒られるわけでもない。評価が下がって仕事をクビになるとかでもない。失敗したら誰かが困るわけでもない。二度と試験が受けられなくなるわけでもない。生活できなくなるわけでもないし、人生が変わるようなものでもない。その程度の試験で緊張したって、するだけ無駄じゃないかなあとぼくは思った。名前を呼ばれコースの説明を受けた。ぼくの指導員は技能教習で何度かお世話になった年配の方で、よく笑うはきはきした人だった。ぼくはその方が好きだったので緊張はさらに薄くなった。バイクにまたがる。陽射しが強い。すぐに暑くなりそうだと思った。エンジンがふくらはぎの内側でじんわり膨らんでいるような熱を放ってふるえている。アクセルを開ける。バイクが走る。あまりよくないバイクだと思った。教習車はすべて同じCB400SFだけれど、個体によって微妙に調子が違う。今日乗ったバイクはなんだかアイドリングが不安定で、3速のノッキングがおおげさに咳き込んでいる感じでがくがくした。一時停止を超えて左折すると目の前に教習中の自動車がいた。自動車は徐行していて、今にも止まりそうだった。ぼくは2速でその車を追いかけ、自動車が止まったタイミングで足をつこうとしてエンストして転んだ。車体が深くバンクして左足で支えようとしてしまったのが仇となって地面に投げ出される格好になった。バイクはある程度傾くと人力では絶対に支えることが出来なくなる。左手をアスファルトについてヘルメットの側頭部が地面に軽くバウンドして気がつくとはいつくばっていた。ぼくは「ぼはっ」と笑った。課題でもなんでもない、ただのまっすぐな道で、あり得ないほど派手に転んでいる自分がおかしかった。これで検定は落第だと思った。こういうところがぼくだし、運転適性度1なんだよなあと思った。「怪我ない!?」と指導員の方が声をかけてくれた。プロテクターのおかげで痛みはなかった。がっかりもしなかった。落ち込みもしなかった。ただうっすらと再試験が面倒くさいなあと思った。バイクを起こして試験の続きをした。バイクを乗り終え、プロテクターとゼッケンを返却し、喫煙所に行った。ベンチに腰かけた。セミの声が聞こえてきそうな青空だった。大型二輪の免許を取ろうと思った。
 会場へ再び集合した。集合時刻になるとぼくだけ別室に呼び出された。他の老若男女は合格したようだった。あの指導員の方が、転倒したために試験は不合格となったこと、他の課題はすべてクリアしていたことを教えてくれた。受付で再試験の予約と補習の申し込みをするよう言われた。ありがとうございました、とぼくは頭を下げた。
 受付で補習を受けたい旨を伝えると、もし時間があればキャンセル待ちが出来ること、キャンセル待ちをするなら優先して順番を回してくれることなどを説明してくれた。補習と再試験の代金が8000円。高い。ぼくは3時間ほど待つことにした。キャンセル待ちは初めての経験だった。ロビーの窓際の席に座ると「卒検不合格」と「キャンセル待ち」のトロフィーを獲得したことに気がついた。中免のやりこみ要素だ。教習所で出来ることの8割くらいをやっているような気がした。ジャズを聴きながら1時間、ぼうっと窓の外を眺めていた。技能教習締切ぎりぎりの時刻に名前を呼ばれた。最初の一時間で運良くキャンセル待ちが出たらしかった。受付で原簿を受け取り速足でライダールームへ向かい、さっき脱いだばかりのプロテクターとゼッケンを急いで装着している間にインストラクターが来て、着替えながら説明を受けた。いつものコースを走れと言う。もうひとりの教習者は痩せた坊ちゃん刈りの男性で、おそらくコースニ回目だろうと思われた。ぼくは教習所のベテランになったような気がした。なんて無駄なベテランであることか。恥ずかしいような楽しいような、不名誉なような名誉なような、留年する人やお局様や、そういう人たちの気持ちが少しわかったような気がした。ひとところに長くいるということ、ただそれだけで新しい視点や立場が生まれてしまうこと。よい面とわるい面。望んだことと望まなかったこと。さまざまな流れ。
 補習では何も問題なく走ることができた。課題もどんどんうまくなってしまった。走り終えるとインストラクターのおじさんが「外黒さんは、次、卒検ね。……まあ、卒業検定なんて技術じゃなくてメンタル面の方がおっきいから」とぶっきらぼうなフォローの言葉をかけてくれた。ほんとにそうだよなあと思いながら「ありがとうございます、頑張ります」とぼくは言う。
 緊張もせず、転んでもはずかしくなく、落ち込みもせず、あまり大きな感情がやってこなかったことは、もしかしたらもったいないことだったのかもしれない、と帰りの電車で考えた。ぼくは緊張したり、転んだときに慌てたり、そういう普通の気持ちを感じた方がよかったのかもしれない。そういう気持ちがなければ技術は向上しないのかもしれない、と思った。でもぼくは技術の向上がしたいのだろうか、と自問した。べつにしたくない、と自答した。ぼくがバイクに望んでいるのは、いつものあの景色だけだった。