覚えなくてもいいように

 シャーロックホームズが、たしかこんなことを言っていた。

「調べれば分かることを記憶する必要はない」そんなようなことを言っていた。ぼくは中学生でその文章を読んだ時、すごく、気に入った。さすがホームズだと思った。それから大人になった今でも、その考えを本気で信じている。調べれば分かることを覚える必要はない。それはもちろん考え方のひとつであり、唯一の真実ではないけども、ぼくの好きな考え方だ。

 会社で作業書を作っている時、注意書きを書いてくれた人が「みんなが忘れないようにね」と言っていた。親切な人だ。そういう小さな心がけが誰かを救う。ぼくは注意書きをぼんやり見ていて、気づいた。ぼくが注意書きを書く時は、みんなが忘れないようには書いてない。「みんなが覚えなくていいように」書いている! そのことに、ひとりでショックを受けていた。やっていることは同じでも、その根本を流れる考え方は、全然違う。

 ぼくは人間が必ず忘れる生き物だと思っている。必ず絶対に忘れるし、必ず絶対にミスをする。だから、忘れないように、という考え方を理解はできても信じていないのだと思う。ぼくは人間が忘れても、書いてあれば覚えなくていいから書いている。いくらでも忘れていい。安心して、忘れていい。

 文章を書くのも、そういう意味があるのかもしれないなあと考えてみる。たのしいこともかなしいことも、ぼくは覚えていたくないのかもしれない。覚えなくてもいいように、書いておいたのかもしれない。