面白い、面白くない

 ほんの時々、文章というものの全てを、質・量問わずどんなものであれ受け付けなくなることがあり、困ります。飽食に飽きており、味にむかついており、脳のキャパシティが膨満感で、それでも空腹だけは機能しているから何か書きたいとか読みたいとか尽きぬ衝動に衝き動かされ手を伸ばし歩き始めてみるも、そうとなれば5分が活動限界臨界点で、即終了のブザーが鳴る。残されるのは瘦せ衰えた病気の山羊のような成れの果ての文芸ゾンビが這い回る悪夢シティーの一室です。これが我が才能の限界か。あまりにも冴えない死。貧困な体力とやる気。元より私のフィールドではなかったのです、ここはどんな人間にも開かれている。しかしそこに住むためには特別な資格が必要なのです。どんな些細な文章でさえ読み書きの許されない病身が居られるようなところでは無かった。さよならの時が来ました。みなさん、ありがとうございました。ぼくは先に行くよ。すこし疲れちゃったんだ。では、お元気で。という比喩を駆使した気持ちになって、一回諦めると、逆にだんだん元気になってくるのをぼくは知っている。ぼくは何度も何度もブログを辞めては始める。なんでそんなことをするのかというと、その時々の状況によって違うけれど、一貫しているのはただ、続けるために辞めている。書き続けるために書き辞めている。また書くためにさよならをしている。複雑なんだけれど単純で、書きたいけど書けないというブロックが発生することは、これはおそらく書く人にとって必ずだから、そのブロックをぶっ壊すには、書けない自分をぶっ壊すのが案外手っ取り早いんだって学んでしまったからでした。だから、人によってその方法は様々なのでございましょうが、ブロックは発生していると思う、そしてそれを壊すことが出来ているから、みんな書き続けることが出来ているってことを、ぼくは今、とても祝福したい気持ちでいます。そのブロックってなんなのかなって考えることはすごく重要だと思っていて、生きていると生きていることが嫌になることがあるということ、と似ている。ハンバーグが好きで、ハンバーグばかり食べていると食べたくなくなるということ、と同様だ。つまり同じようなことを、同じようなやり方でやっていたら、それは飽食に飽きるわけだから、一回食べるのを辞めるか、違うものを食べるか、などなどの工夫をしなければいけないのよ、って誰に教わったわけでもないのに体が知っている。休んだり、違う方法を試したりすることで、結果として長く続けることが出来るなら、私は今の私が壊れることなんかこれっぽっちも恐くありませんでした。何しろ最も恐れなくてはならない事態は、書くこと読むことが、面白くなくなってしまうことです。楽しさを動機にしていることの欠点は、楽しさを常に燃焼させていなければならないことでした。慣性を止めないこと、ブロックを破壊し続けることです。外黒さんて身を削って書いてますよね、と言われること、笑ってしまいます。どうしてあの人みたいにスマートに書くことができないんだろうって10年前から思っているんですが、永遠に謎のままで、でもぼくはあの人ではないしな。誰しもにブロックは発生するわけなのだし。自分が自分に期待しすぎること、同じことを繰り返し過ぎること、望みが大きすぎること、そういうのって素敵なのに、どうして上手くいかないんだろう。げへへって笑ったり、一人称があっしだったり、趣味が窃盗だったりする方が、きたなくてずっと書きやすいのかもしれないな。うつくしく燃えるために代償を支払うのなんて当然だったのかもしれない。でもだから、ぼくには続けることのできない綺麗さを今日も保っている人が尊い。どこかで誰かが頑張っているって思う、ただそれだけでちょっと元気になったりするような善性が、俺にもあるのだな。吾輩の辞書に面白いという文字はない。が、今日の結末。よく考えると、甘さを感じる器官や、臭さを感じる器官はあるのに、面白いを感じる器官って無かった。そのことについて、もっと考えようと思う。

 

外黒に資金を与える