バレンタイン・イヴと人間の心

 ふつふつと湧き上がってきた。
 電話機のボタンを押す。
 ぱちぱちぱち! ぱちぱちぱちぱち! ぱちぱちぱちぱち!
 誰も、電話に出ない。
 想像――非常灯の灯る暗緑色のオフィスに、響き渡るコール。
 受話器を置く。
 がちょ!
 腕を組む。首をごきごき鳴らす。椅子から立ち上がる。時計を見る。
 もうすぐ、退社だ。
 はじめて社会で仕事をした日から、ずっと考えていたことがある。
 こんなに適当なものが、大人の正体だったのですか。
 すこし、ほっとしてもいる。
 
「すんません。ケータイ、会社に忘れちゃって」
 折り返しを頂く。
 人間を、信じてもいいのかもしれぬ。
「とんでも! とんでもござぁせん! 折り返し、あーりがとうございます!」
 異に染まぬ歓喜の声、生まれいずる。
 我が事ながら、汗顔の至り。
 短絡、安直、小心、小器……恥ずかしいとも、思うまい。私も人だった。
 受話器を置く。
 そっ。
 完璧でなくとも、こうして社会は紡がれる。
 考えたまえ。責任感故に、彼はオフィスに戻ったではないか。
 これも大人の姿ではないか。
 
「ひと段落したので、私、休憩に行きます」
「え、どうぞ」と山中さんは言った。
 始業から退社時刻まで、休憩などありはしなかった。
 上着をはおる。
 表に出て、寒風吹きすさぶ喫煙所で、電子煙草をしていた。
 近所の高級すし店から出てきたらしい集団が、わらわらと私を取り囲む。
 集団は四方八方から言葉を放った。方向感覚を狂わせる妖怪のように。
 私は、逃げだした。
 暗い闇の中へ、今すぐに飛び込まねばならぬと思った。
 妖怪はどちらか。
 
 持ち場へ戻る前に、ふと、お菓子の無人販売所に出向いた。
 給湯室の片隅に、ひっそりとミニパックが並んでいる。かわいいおみせだ。
 チョコレートをひとつ買い、席に戻る。
『ひと息つこっ!!』と、チョコレートの箱の裏に、きらきらメッセージを書く。
 山中さんに、そっと差し出す。
「わあ、キットカットだ。メッセージも書いてある。これ、ずっと大事にしますね」
 と、山中さんは笑った。
「いますぐ食べてください」
 と、私は笑った。
 山中さんは、御年52歳の、むくつけき大和男子である。
 そんな属性を気にするほど、私はおちぶれていない。
 人の喜ぶ顔が、好きである。ただ、それだけなんだ。
 山中さんは、メッセージをハサミで切り取り、胸ポケットに入れた。
 それからゴミをゴミ箱にねじ込んだ。
 そこで私は、はたと気がつく。
 今日はバレンタイン・イヴだ。
「ああっ、明日あげた方が面白かったですね! 失敗した!」
 私はうめいた。
「なんかありましたっけ」
 山中さんは、何も気にしていない。バレンタインに、気づいてもいない。
 そのままの形で、受け取ったのだ。
 人間の心、そのままの形で。