「海に行こうよ」と、僕は言った。
矢部はうつむいた。
矢部はいつもうつむいていた。
「うちのすぐ近くにあるから、シャワーとかはうちで浴びればいいしさ、楽しいよ」
「でも俺、海とか行ったことないから」
矢部は背が低かった。時々ものすごく面白いことを言う。しかし普段は、彼の心を分厚い黒雲が覆っていた。
底の見えない深い穴みたいな矢部が好きだった。
「はじめてでもいいよ。なんでも経験した方が面白いよ」
「なんか……だんだん行きたくなってきたかも」
矢部は困ったようにすこしだけ笑った。
勝った、と思った。
ほんのわずかかもしれないけれど、黒雲をひきちぎった気がした。
駅に向かう。
晴天だった。ぬるい風が強かった。海のにおいがした。
白いTシャツを着た矢部は、光に塗りつぶされてそのまま消えてしまいそうだった。
彼は駅のガラス戸の前に立っていた。あずき色のナップザックを背負って。
僕は何をして遊ぶか、ずっと考えていた。
矢部は泳げない。
波打ち際でばしゃばしゃしようと思った。
今回の目的は僕が楽しむ事ではなく、矢部が海を体験することだった。
砂浜に着いた。
塗装の剥げた白い船が上げてある。
フジツボのついた浮き玉もごちゃごちゃに置かれている。
生命力の強い尖った草が砂と領土を奪い合っている。
くだけた貝殻。
遠く、青黒い海の方に、テトラポッドが積んである。
その向こうは水平線だった。
風は海から吹いてくる。
水面がとても細かく揺れ、光が矢のように目を刺す。
蠅。
足元をかすめていく砂の感触。
Tシャツを脱いだ。
「俺はいいよ」と矢部は言った。「俺はいいよ」
体が砂に埋もれていくような気がした。
矢部は明るく笑った。
「中耳炎だからさ、泳げないし。えーちゃんだけ行ってきてよ」
考えた。
思い出した。
理解した。
「ここで待ってるよ」と矢部は言った。
僕はTシャツを着た。
「いいの」と矢部は聞いた。
「うちでゲームしよう」と僕は言った。
ごめん、と矢部は呟いた。
ごめん、えーちゃん。
今週のお題「ほろ苦い思い出」