人間について

 人を抱きしめる夢を見て目覚めた。それを5回繰り返した。人を抱きしめる夢はぼくにとって悪夢だった。絶望的な気持ちになる。抱きしめる相手が誰であろうと関係なく、喪失感を覚える。示唆的だ。充分に眠ることが出来ていないということも負担だった。早朝に何度も目覚め、眠ることが不可能だと判断してからは、青黒い窓の近くで、冷たい空気の流れの中に立ち尽くし、ぼくはふらふらと揺れていた。生きているっていうのは一体なんだろうと思った。すると死んでいる者たちが次々に訪れた。彼らはみんな間違いなく死んでいた。冬になったのだ。
 
 お昼ごろまで何か明確でない行動をして過ごした。本を読みながら考えごとをするとか、音楽を聴きながらシャドーボクシングをするとか、PCのアクリルパネルを掃除してラジオをつけたり消したりするとか、そういう事をした。そろそろ誰かから連絡が来るかもしれないと思った。それはひとつの閃きであり、知識だった。ぼくの悪夢は、気分の不良は、オリジナルな特性じゃないのではないかと思った。それはひとつの大きな波であり、その巨大な波動は色々な人間に波及している。人間のひとりひとりが持つ小さな因果がある瞬間に共鳴して大きな流れになる。シンクロニシティと呼んだりもするだろうし、季節性の鬱と呼んだりもするだろうし、バイオリズムにも関係しているだろう。原因なんてどうでもいい。根拠はぼくの悪夢であり、それは多くの人間が持っている何らかの因子が行動を誘発しているに過ぎないという、ただその事実らしきものの片鱗を感じたい。連絡は三件来た。後輩から二件と昔からの友人から一件だった。やっぱりそうなんだとぼくは思った。彼らは別に悪夢なんて見なかったと思う。でも、おそらく何か、オリジナルではない特性によって、言い方を変えると人間が標準装備している何かの機能によって、ぼくに連絡をしたんだと思う。昔からたびたびこういう事がある。そしてその連絡に、ぼくはずっと感謝している。

 後輩と秋葉原で待ち合わせをした。ぼくは5分遅刻した。ぼくは基本的に待ち合わせには遅刻しない。早い時には1時間前に、遅くとも10分前には待ち合わせ場所の近くにいる。大概の友人は待ち合わせに遅刻してくる。大体5割くらいは遅刻してくる。友人が遅刻してくることに関しては特に何も思わない。ぼくは外出中は本を読んで過ごしている。帰宅しても本を読んで過ごしている。待ち合わせ中も本を読んで過ごしている。行動自体は何も変わらないので、気にならない。どうせ本を読んでいる。反面、人を待たせるということに関しては、気を遣う。ぼくは人を待たせることが嫌いだ。人を待たせることに関して何も感じない人が好きではないからだ。待ち合わせに遅刻してくるのが常習である人は、待たせることに感して無感覚になっていることが多い。ぼくは待つことに関しては気にしないけれど、待たせることに関して無感覚になっている人間の品性の下劣さを嫌っている。ぼくは高潔な人間なのだ。遅刻してきたらせめて一言謝るのがマナーだと思うし、遅刻しそうなら早めに連絡をするべきだ。そのような考えを持っているため、ぼくは後輩に早めに遅刻の連絡をし、待ち合わせ場所で遅刻を詫びた。そうして無感覚でいた。ぼくは品性が下劣な人間なのだ。ぼくはこの後輩に対しては遅刻をしてもいいと思っていた。ぼくはこの後輩が好きではなかった。

 人間には様々な面がある。ある瞬間の思考や感情を描き出そうとするだけで無限字の文章が必要になる。困る。だからぼくはとりあえず文章を押し進めることだけに注力する。今日書けなかったことは明日書けばいい。いつか書ければいいなと思う。この後輩を仮に08と呼ぶことにする。08がどんな人間であるかを書くためには無限字の文章が必要になるので、無理やり一言で表現してみると、内弁慶で空気を読めない思い込みの激しい小心者である。彼の長所は、身分が上の人間に対して従順であるということと、自分はメンタルが強く、思いやりがあって人として懐が広いと信じこんでいるところである。彼は以前の会社で入社当時からちょっと変な奴という捉えられ方をしていた。そしてそれは事実だった。ちょっと変な奴だった。以前の会社にはちょっと変な奴しかいなかった。大体の人間はちょっと変な奴だけれど、その中でもちょっと変な奴が集まっていた。ぼくは非常に親切で優しく、そういう人間を放っておけない優れた人間なので、08が入って来た時には、彼の世話をした。08はすぐにぼくに心を開いた。ぼくとだけ親しく話すようになった。その時から08はぼくの業になった。ぼくは好きな人には好きだと言うことにしている。真実だからだ。ぼくは嫌いな人には嫌いだと言うことにしている。真実だからだ。ぼくは08にお前が苦手で嫌いだ、と言い続けて来た。一番重要なのは、08がぼくに嫌われても大丈夫そうだというところだ。08だけではない。大体の人間はぼくに嫌われても平気で生きていける。ぼくがそばにいないと死んでしまうという人間は親兄弟であろうと存在しない。ぼくはその点において人間を信用している。ぼくは賢く、また広い視点を有しており、数々の経験をしてきた人間なので、ぼくの価値を過剰に高く見積もらない。ぼくは誰かにとって必要不可欠ではない。そういうことに気づいている段階で、かなり優れている。神に選ばれてしまっている。神より優れている可能性さえある。
 
 08と居酒屋で酒を飲んだ。08は手羽先を大量に注文し、サワーを頼んだ。そしてしゃべりながらむせた。げほげほむせた。そして口から何か出そうになったので下にあった皿を自分の口の下に持ってきた。その皿には手つかずの手羽先が大量に乗っていた。これは08を端的に表わしているエピソードだ。08は時々、鼻くそも食べる。鼻くそを食べた手で共用マウスにも触る。彼は30歳を超えている。一度08について友人に相談したことがある。そういうやついるよね、気にしない方がいいよ、と友人は言ってくれた。気になりすぎるから相談しているのであるが、そういう奴には何を言っても無駄だという結論になって相談は終わった。もちろん何を言っても無駄なのだ。そんなことはずっと一緒にいたから分かっている。分かっていて言っているのである。分かっていても思考停止したらそこで終わりだから言っているのである。でもこの点において理解を示してくれる人間は少ない。そもそも人間というのはあまりものを深く考えていない。他人に関する話題ならほとんど皆無だろう。男らしさという概念を持ち出して、ぼくの器の小ささを逆に責めるような事態にもなる。男はそんなの気にしないでしょ、みたいなことを言う人がいまだに存在している。そういうことを言う人はたぶんどこかで鼻くそを食べているんだろうなと思う。それを認めたら人間として終わりなんじゃないかと思う。
 08は口からぺっぺと肉片を放出しながらおしゃべりをして楽しそうだ。ぼくはにこにこしながらニ度と料理には手をつけなかった。ぼくには異食恐怖がある。あと単純に汚い。
 08のもう一つの長所を思い出した。唯一の長所かもしれない。彼はボケ・ツッコミの概念を承知している。それはぼくが唯一認めている彼の美点かもしれない。ボケ・ツッコミという概念は日本にしかないものらしい。それは非常に繊細な話術のもとに展開される。08と話していて楽しいと感じるのは、ぼくのボケにきちんと08がツッコんでくれる時だ。08のツッコミは下の中ぐらいのワードセンスなんだけれどタイミングと反応速度だけは素晴らしい。ぼくと08は延々とボケツッコミを繰り返す。それしか話すことがない。そもそもぼくと08の間には話題がほとんどない。趣味も合わない。感性も合わない。思考の深度も合わない。音楽性も合わない。だからぼくは即興でボケ続け、08はそれに合わせてツッコミまくる。以前の会社ではこのボケツッコミで数々の同僚・上司を笑わせてきた。そもそもぼくはこのボケツッコミというコミュニケーションを愛している。出来る人間は非常に少ないけれど、出来る人は出来る。一度初対面の人と飲むことになってその人がボケ気質だったのでぼくがツッコミに回って何時間もしゃべり続けたこともある。その積み重なって共鳴し合う言葉の波紋が大きくなるとほとんど快感の域まで達する。それはほとんど愛である。深い理解である。ミュージシャンが楽器を使って深くコミュニケーションをするように、我々はボケとツッコミで交信する。お互いが持ちうる言語感覚を極限まで研ぎ澄ませて言葉をやりとりするとひとつの世界が生まれる。そこにはお互いに対する敬意がある。信頼がある。そうしてその中心には、いつも笑いが満ちている。完璧な調和。08とはあまりそういう段階まで達することがない。一度、一緒にバンジージャンプに行った時の電車の中でそうなったことはある。4時間ほどずっとしゃべり続けた。電車から降りた時に息切れして何も喋れなくなるほど喋った。あの時はとても楽しかった。
 ぼくは08にメイドバーに行ってメイドさんを爆笑させようと提案した。いいですよ、と08は反抗的な口調で答えた。挑むような態度だった。ぼくと08は夜の秋葉原を歩き回りメイドさんから何枚ものチラシを貰った。その中で08が行けそうな場所を選ばせているうちに、トークに自信あり! と自ら営業をかけてくるハートの強いメイドさんがいたので、その人に連れられてコンカフェに入った。カウンターに通され、飲み物が目の前に現れた。08は何も喋らなくなった。一言もしゃべらなくなった。気まずそうにうつむいていた。すっかり忘れていた。08は内弁慶で、しかも自分を過剰に高く評価しているのだった。メイドさんは商売なので話し続けた。何度か店を移っていてこの店で三軒目だと言っていた。前の店は14歳の地雷系の女の子が身分証を偽造して働いてたから摘発くらって潰れちゃった、と言って笑った。トークに自信があるというだけあって面白かった。肝が据わっている。ぼくはボクサー、08は笑点というあだなをつけられた。すぐに40分経ったのでボクサーと笑点は延長せずにさっさと店を出た。笑点は、やっぱりああいう店は苦手ですね、と言った。それから、ああ彼女ほしいー! あの子可愛かったですね! と言い始めた。いや、今のお前に彼女が出来るはずないだろとぼくは言った。人の話も聞かないで気まずそうにしてるやつなんて誰が好きになるんだよ。
 ぼくは08が変わってくれたらいいなとずっと思っていた。それは不可能な願いだと分かっていた。ぼくは08を支配したくもないし、彼の人生に関わりたくもない。でもせめて色々なことから学ぶ姿勢だけは身に着けてほしいなと思っている。ずっと思っている。ぼくが彼にそれを教えられるとは思っていない。ぼくは彼に何も与えられない。そのつもりもない。どうでもいい。好きにすればいい。ぼくは助手席の人間だ。お前を色々なところに案内することは出来る。バンジージャンプにもメイドバーにもジャズライブにも連れていける。でもそこから先はお前の問題であって、お前の問題だってことをもっときちんと考えたほうがいい。いつになく真面目ですね、と08はにやける。何を言っても無駄だということを、ぼくは知っている。
 俺はお前のことほんとに嫌いだよ。お前も俺が嫌いでしょ。とぼくは言う。
 好きですよ。嫌いな人と一緒に歩かないでしょ。と08は言う。
 08はしょうもない、不出来な、未成熟なおっさんだ。
 でも、人間について教えてくれる。