遅刻警察・友人

  今日は高校の友人と遊んだ。午前10時に待ち合わせした。待ち合わせ時間の25分前に到着していたぼくはうどんを食べていた。二人とも遅刻してきた。ひとつ仮説がある。遊びの約束である場合、男はとにかく遅刻してくるのではないか。とにかく遅刻してくる男が多い。あまりにも多いので、時間通りに来ることはもう期待していない。期待していないのでうどんを食べていたのである。彼らは遅刻して来ても、特に自分が悪いとは思っていない。むしろ、早く来て待っている人がいることを当たり前だと思っており、待っている人のことを、多分ちょっと間抜けだとすら思っている。そんな気がしたので、うどんを食べた後、ひとりで喫茶店に入ってロイヤルミルクティーを飲んだ。友人のひとりが到着して「目的の店にもう向かっている」とメッセージが来たので、ぼくは「ロイヤルミルクティーを飲んでいるよ」と送ると、「店は行列が出来ているので早く来てくれ!」とメッセージが届いた。早く来てくれ! はこっちの台詞なんだが!?!? 小学生からやり直すか坊や!?!? と思ったけれど、ぼくは優しいので、というか面倒になったので、今行くね、と返信をした。これは男性によくある事象で、年代や立場を問わず頻発する。彼らは待ち合わせに遅刻しないように行動する予定を立てることが出来ないし、遅れて来ても悪いと思っていないので謝りもせず、また遅刻してくる。遅刻するだけならよいけれど、こっちが遅刻しそうになると妙にそわそわしたりする。ここで一番問題になるのは、時間を守ろうと頑張っている人が、結果として「時間を守っても意味ないから遅刻していこう」と思うようになってしまうことである。腐ったミカンと言ってもいいし、割れ窓理論と言ってもいい。なにしろ、遅刻している側にメリット(時間の自由裁量権)があるような環境では、リソースを割いて努力する方(時間に拘束される)が損だ。すると、いずれぼくもやたら遅刻する人間になってしまう。そうして遅刻がはびこる。つまり、男性の待ち合わせは、文化的にもう腐敗しきっている。年代や立場を問わず遅刻してくるのだから、腐敗は完全に実証されているのである。そしてぼくも今までそれを容認して来た。みんな忙しいだろうし、寝坊したり、電車が止まったりして大変なんだろうな、と大目に見てきた。それではもうだめなんではないかと思う。2023年は遅刻に対して圧力をかけていく方針で進めようと思う。遅刻したら一軒目はおごってもらう。ぼくも遅刻したらいくらでもおごろうと思う。人を待たせたらきちんと頭を下げようと思う。それが待ち合わせの最低限の礼儀ではないか。遅刻警察に、ぼくはなる! 女性の待ち合わせについてはほとんどサンプルがないので分からないけれど、女性も遅刻する人はいつも遅刻する。でも女性は遅刻したらきちんと謝る文化が根付いているように思う。当たり前のことなんだけど、大事だと思う。
 
 友人もぼくも目的の店に集合し、ホットケーキを食べた。5センチもありそうな分厚いホットケーキだが、見るからにやわらかそうだ。表面には淡く粉砂糖をまとっている。ぱりっとハリのある生地にバターを薄く伸ばし、山盛りのホイップクリームを添えて口に運ぶとふんわりと夢見心地の食感と焼きたての生地の香りが胸を高鳴らせ、脳をしびれさせ、凍てついたシベリアの大地に一輪の桃色の花が咲いたかのような、ぼくは食レポが下手なのでここは失笑しながら書いているのだが、スイーツの国境を超えてやってきた笑顔の素敵な大使がこれ。うまうまと食らった。大使はスイーツの国境を超えて家に帰った。
 近くにあった靖国神社へ初詣に行った。といってもぼくは元旦に自宅の近くの小さな神社で初詣は済ませていたので二度目詣となった。何度詣でても神は怒るまい。「外黒は何を願うの?」と友人Bが聞いたので「ぼくにかかわった人の健康と平和」と答えると、つまんねえなあと言われたので、「和田アキ子さんが両腕にぶっといゴリラアームを移植してテレビに出てくること」と言ったらそこそこウケた。おみくじは吉。心清らかにして過ごせば願いは叶う精進せよ的なことが書いてあった。なかなかよい吉のようだった。ぼくは遅刻警察になったので願いは叶うだろう。和田アキ子さんに注目だ。
 渋谷の眼鏡屋に片っ端から入って友人Aにお似合いの眼鏡を探した。友人Aは最近眼鏡を新調して、人が変わったような見かけになった。以前の眼鏡に比べ、周囲からの評判も随分よいとのことだったが、ぼくは満足できなかった。もちろん新しい眼鏡はよいものだ。とても似合っている。しかし、今までの攻めたデザインの眼鏡からおとなしいデザインの眼鏡になった。「世界中の誰もがその眼鏡を認めても、ぼくだけは反論させてくれ。きみを最もよく知る友人のひとりとして、あえて世界を敵に回そう。ぼくは君にはもっとよい眼鏡があると思う。その眼鏡は君の存在を薄くした。誰からも反感を買わないためだけの眼鏡になんの意味がある。眼鏡とは、君自身の象徴ではないか。示せ、己を!」的な意味の分からないことをぼくは言った。友人Aはもともとおしゃれで、おそらく今の眼鏡を最良だとも思っていなかったので、眼鏡探しの旅をして、様々な眼鏡を試着してみんなで「それをかけるとマフィアみたいね」とか「スキーヤーじゃん」とか「似合ってる!」とか「成金みたいだな」とか「いけすかないデザイナーのやつ」とか言いたい放題言って遊んだ。友人Aはグッチだかシャネルだかの、フレームが骨の形になっている眼鏡をいたく気に入った様子だったけれど、理性を働かせて買うのはやめていた。眼鏡は顔の一部になってしまう道具だから、選ぶのはとても大変だなと思う。顔を選んでいるようなものではないか。
 原宿に向かう細い道にあったクラフトコーラの店でコーラを飲んだ。はじめてクラフトコーラというものを飲んだけれど、大変な美味であった。思いのほか体によさそうな味がした。生姜系の薬草っぽさがありつつきちんとコーラだった。容器がコップではなくビニール袋だったところもSF感があってよかった。店内には何故か水がちょろちょろ流れている音がしていた。それから時々鐘の音がコーンとなった。「この鐘の音は、クラフトコーラを飲んだから聞こえるのかな」と友人Aは言った。ぼくはうなずいた。「いざなわれているんだね」とぼくは言った。友人Aはうなずいた。ぼくたちは延々と妄想の話をしつづける能力を持っている。妄想の話しかしてない。
 宮下パークに行ってみた。人が多すぎたのですぐに出た。
 渋い焼き鳥屋さんに入って一杯飲む。うすぐらい畳敷きの店で、お客はみなさんくすんだ色合いをしている。生活の話とか、家の話とか、仕事の話とか、疲労の話とか、死の話とか、自然と渋い話になっていった。真夜中の野球場みたいな沈黙が舞い降りる。うるさい客がひとりもいない、大人の空間だった。焼き鳥をつつきながら、それぞれが自らの思考にダイブしているのがなんとなく分かる。「歳とったよな。俺は怖いよ」と友人Bが呟いた。「ずっと子供のままでさ、何かが満たされてないままなんだ。時々死にたくなる。わかる?」と友人Aは言った。「分かるよ」とぼくは言った。でもどうすればいいのかはわからなかった。「どうやって死にたい?」とぼくは聞いた。友人Aは「大往生」と言った。友人Bは「癌とかになったら、遠くから知らない間に狙撃とかされて、何も知らないままそっと死にたい」と言った。色々な希望の死があるんだなあと思った。ぼくは飛行機から飛び降りて地面に着く寸前に爆発して死にたいと思ったけれどあまりにもしょうもない希望なので言うのはやめた。最後の酒が届いた。いつもの安っぽいレモンサワー。「……ぼくたちの未来に」と言ってグラスを合わせる。文字にすると全然面白くないくさい台詞とともに楽しい一日は幕。