光・蟹・写真

 光療法について、ざっと調べたこと及びやったこと。
 ある種の鬱や概日リズム睡眠障害に効果があるらしい処置で、高照度の強い光を1時間程度患者に当てるものらしい。理解はできる。冬季の日照不足によって季節性のうつが発生するなら光を当てればいいという考え方はシンプルだった。youtubeで医者っぽい人の動画を見てみると「ライトなんて当てなくても散歩すればいいじゃん」と言っていて、すこし笑う。その通りだとも思う。wikiの情報によると光療法には5000~10000ルクス程度の照明を使うのだとか。晴れの日の外の光の強さはその10倍らしいので、散歩するのが一番よいのだろうなと素人のぼくも思う。散歩は運動にもなるわけだし。ちなみに雨の日でも外は10000ルクスくらいの光の強さなのだとネットのどこかで見た。
 ぼくは何か改善できることがありそうなら自分でやってみたいと思うタイプだ。Amazonで光療法に使えそうなライトを探してみた。該当する10000ルクスの照明は売っているけど高かった。効果が不明なのにあまりお金は出したくない。色々探しているうちに3500ルクスの電球をみつけた。これはただ、光が強いだけの電球であり、ポン付け出来て設置が楽そうだったので買ってみた。普通のLED電球と比べても割高だったし、見た目がいかつい業務用で、ヒートシンクまでついていておしゃれさはまるでないのだけれど、その分明るさには期待が持てた。
 ぼくは今まで三種類の電球を使い分けて生活してきた。まずは普通の昼光色(蛍光灯色)のLED電球。充分明るい。たぶん1000ルクスくらいだったと思う。次にLEDのエジソン電球風電球。エジソン電球はデザイン重視のものが多くて薄暗さを楽しむくらいのものなんだけれどデザインがかわいいので使っていた。最後に青色のカラー電球。部屋が真っ青になって楽しいのでホラーテイストにしたいときに使っていた。ここに四つ目の電球が来る。早速設置してみるとたしかに明るかった。しかし眩しすぎるということもなかった。ぼくはもっとぎらぎらして目が痛くなるようなものなのかなと思っていたけれど、3500ルクス程度なら間違って直視しちゃっても全然平気なくらいの明るさだったので、正直ちょっと拍子抜けした。それでも一応かなり強い光に分類されるのだろうし、照明のせいで覚醒の水準が落ちるということは防げるのかなあというところ。ぼくは部屋にいることが多いし、照明をつけても部屋は今までちょっと暗かったんだけれど、少なくとも明るくなってよかったなって思う。ただおそらく夜にこの明るい照明を使うと不必要に覚醒する気がするので、夜はエジソン電球にしようかなと考えている。
 
 姉と姉の友人を遅いクリスマスプレゼントとしてカニ食べ放題に連れて行った。
 東京ドームホテルの3階のビュッフェだった。カニ食べ放題ってあまりやったことがないので、ぼくが行ってみたかったところも大きい。姉は「サンダルで行けっかな」とメッセージを送ってきた。姉と姉の友人はどこにでもクロックスで行ける人だ。たぶんぼくの葬式くらいならクロックスでやると思う。
 お店に入って席に通されビュッフェでからあげとかを盛って戻ってくると大皿に大盛りのズワイガニが出てきて思わず「うわカニ」と言った。そこからは野の獣となった。カニというのはとてもプリミティブな食べ物だ。ごつごつした足をもぎ、殻をへし折り、カニ肉を引きずり出してむしゃぶりつくものだ。うつくしく食べることなど不器用なぼくにはできなかった。巨大なハサミやカニ肉をかき出すためのカニ棒が置いてあったけれど、関節をへし折るのが一番手っ取り早いのに気づいてから我々は文明を捨てた。はじめはとにかく食べるのが難しくカニの固いとげが手に刺さったりしたけれど後半になるとボキ! ズル! パク! のペースで食べることが出来るようになった。「カニレベル1から5くらいになったね」と話し合ってうなずいた。カニは食べているうちにどんどん無心になっていく。単純作業だった。食べ物を手で食べるとか、食材にかみつくとか、時々そういう野生は人間に必要かもしれないなってぼくはひとりで考えていた。人間は動物だから、動物性を忘れたらきっとろくなことにならない。人間らしさと動物らしさとをきちんと理解していたい。カニのハサミの部分がめちゃくちゃ硬くてどうやって食べればいいのか最後までわからなかった。カニバサミを人間バサミで破壊して食べたけれど正しい食べ方があるのだろうか。トウモロコシも正しい食べ方が分からないし、七面鳥の丸焼きも正しい食べ方がわからない。正しい食べ方なんてないのかもしれない。「なんかカニ食べてる人って悪者っぽいよね」と姉の友人が言った。相変わらず面白いこと考えてるなあと思った。たしかに、カニ食べてる人は悪者っぽい。ロールケーキとかを食べている悪者、いないものな。ビュッフェにはカニ食べ放題プランの人がほとんどいなかったらしく、通りすがる人がみんな我々をじろじろ見て行った。空き皿にカニの殻を山盛りにしてビール飲んでる悪党が三人いたら、それは目立つよなあと思った。
 
 姉らと別れたあと、ひとりで秋葉原ヨドバシカメラに向かった。スマホで撮った写真をプリントしようと思った。機械につないで過去の写真を見ながらプリントするものを選んでいるうちに吐き気がしてきた。一枚一枚にまだ記憶が残っていて感情の容量が大きすぎる。それに2017年までの写真が5000枚以上あると表示されている。あまり考えないようにして人が笑えるくらいあほな写真を40枚選んだ。「スパイのsotokuro」が一枚、すでに予約が入っているので、これからも愚かな写真を撮ってその場限りの笑いを提供していきたいと思っている。ぼくはぼくの不細工な顔が嫌いだし、醜いな~と思うけれど、だからこそ醜い自分の写真を醜いなあと思いながら撮るのがとても好きだ。逆説的なナルシシズムなのかもしれない。気持ち悪さをきちんと気持ち悪さだと捉えるのは、不思議と気持ちがいい。それを見直すのは嫌いだけど、気持ち悪い写真が撮れたから見てよって友人を笑わせるのは好きだ。複雑だ。時々、いい写真がある。森の中の、木漏れ日の下で、虫取り網を持った友人が、子供と手を繋いで歩いている写真。そこにぼくは映っていないけれど、光の中を進む親子というのは独特の聖性がある。カブトムシ採れなかったなとか、思い出す。その次の写真が友人が札束を持って下卑た笑みを浮かべている変顔だったので、とりあえず二枚プリントした。