おばけ

 思えば朝から様子がおかしかった。
 バスルームから出ると本棚の番人が私をじっと見ていた。
 いつもの彼女なら、どこか遠くを見つめている。私の方を見ていたとしても、その視線は私という物質を透過して、イギリスの片田舎の洋館の、中庭に咲いた薔薇の美しさに向けられている。
 この世界のどんなものにも興味がないから、彼女は本棚の番人になったのだろう。
 私は彼女の視線に戸惑った。何しろバスルームから出てきたばかりだったから。なんだか悪いことをしているような気持ちになったものだ。
 そんなに人を見つめるのは、ほんのりお行儀が悪いですよ。と私は思った。
 お気に入りの窓の方へ移動しても、彼女はまだ横目でこちらを見ていた。
 どうしてそんなに。と私は思った。
 いや別に。見てないですけど。と彼女から聞こえた。
 なるほど、なるほど、なるほど。私は頭をかいた。
 様子がおかしいのは彼女ではなく私の方だった。
 今日の天気はにわか雨。空はねずみ色。光源は弱弱しく、部屋の中は不吉に暗い。光の力が弱まり、影の力が強くなる。とても天気のいい日には、おばけは寝ている。しかしとても暗い夜には、おばけが目を覚ます。ハッピーエンドは快晴で、バッドエンドは篠突く雨だ。文化圧。否が応にも触れ続けてきたメディアの、コンテンツの、様々な物語が人間の価値観を形成する一端となっている。価値観は無論、無意識の直感へも影響を及ぼす。直感とは、すなわち論理的思考の超越。観測即解である。どうして人間に直感などという機能が備わっているのか、それは人間がかつて自然界で生きていた動物だったからだ。自然界では、論理的に考えている時間など無い。コンマ1秒の判断が生死を分ける世界では、直感の力こそが生き物としての価値を高めるのだ。
 私も、先祖代々受け継がれてきた直感を信じようと思い、窓の前で腰を振りながらリズムを取り、軽く手を打ち鳴らすなどしてみた。
 楽しい気持ちになるかと思ったのだ。
 ならなかった。
 へい、へい、へい。私の曇り空ダンスを見なよ。私は手を右・左・右・左と突き出した。
 全然楽しくなかった。
 直感を信じるのはやめようと思った。私は人間なのだ。動物ではない。
 窓際で電子煙草を吸い始める頃には、彼女はもう私を見ていなかった。
 彼女は氷山の中で氷漬けになっている不思議な生き物に夢中になっている。
 窓の外の影に目をやって、うすい煙を飛ばしながら、おばけについて考えていた。
 私は100%の人間だけれど、2%くらいはおばけかもしれない。