年末の準備に追われる中、忙しい日々を描いた物語

 年末年始の準備に追われていた。
 クリスマスプレゼントを考えていたわけではないし、おせち料理を予約していたわけでもなく、ただ仕事に追われており、命令されるがままに、なかまたちが使う資料を、斧で仏像を削り出す形で、がりがりばさばさと作成し、リソースが足りないところは協力を仰ぎ、とりあえず形にした端から確認してもらい、その合間を縫ってスペシャルつけ麺の大盛りを食べ、ステーキ定食を食べ、久方ぶりに資格の勉強をし、ネットニュースを読み、Astor Piazzollaのうつくしいバンドネオンの調べに身を委ね、かと思うとなかまたちがお話を持ちかけてくれるので、その対応をし、その対応をしながらも本心では時間が過ぎていくことを心配しており、私、いまきちんと笑えていますか? 生きるって何? 死ぬって何? 私が本当にしたかったことって、なんだったっけ。そんなことを考えながらExcelファイルを開いたり閉じたりし、喫煙所の茂みの奥から甲高い鳥の鳴き声が聞こえるものの、鳥の姿は見えず、雲は薄く、虫の姿は消え、ずっと風邪をひきっぱなしの体は重く、体力は未だ戻らず、戦争は続いており、梅干を食べ、ニンニクを食べ、納豆を食べ、ビタミン剤を飲み、風邪薬を飲み、睡眠薬を飲み、SSRIを飲み、布団に潜ってランタンの幽玄な灯りで読書をし、数日で3冊ほど読み終え、近頃は随分読書が進む傾向にあるのは、ひとえに寒さのせいであって、布団の外に出たくないから必然、布団の中で本を読むということが日課になり、この姿勢・態勢はやはり北国に生まれた私の基本的な行動規範なのかもしれないなと思いながら、窓を開けると一けた台の冷気が体を撫ぜ、そして電子煙草をぼかぼか吸い、十六茶を飲み、牛乳を飲み、ニューバランスの靴を履き、オニツカタイガーの靴を履き、スパティフィラムの葉を磨き、その厚みのある葉のやわらかさやハリを指先に感じてうっとりとなり、生命に触れた気がして、顔に化粧水をまぶし、その上に乳液を湿らせ、脇に体温計を挟み、鏡のくもりをトイレットペーパーで無精にぬぐい、ノートパソコンの入った重いリュックサックを背負って家を出、青黒い朝の光が憂鬱で、そういえば家にあるフィギュアは、ひとつを除いてすべて人に貰ったものだ、と気がついてフィギュアを棚から全ておろし、ひとつびとつをウェットティッシュで拭いて、そしてあらゆる角度からまじまじとみつめ、何か発見があるか試してみると、この美少女フィギュア達の体型は驚くほど似ており、涅槃のポーズの仏像と比べてみると、その造形の差は一目瞭然で、どちらがいいとか悪いとかではないけれど、手足がひょろながい美少女と、ずんぐりむっくりした岩のような仏と、そのどちらも同じようになんだか面白く、人間の体という形も、じっと観ているとそのカーブや各所のボリューム感や、体の「ねじれ」がどのようなシルエットになるかという体感的な視覚情報が右脳的で、そこには言葉が無くなり、ただひとつのレンズになった目が面白く、ともすると確認が終わった資料が戻ってきて、鼻をかみ、パンを食べ、大きいおにぎりを食べ、タンスティックを食べ、資料を修正し、資料を作成するための資料を作成し、自分で作業をするだけならなんにも苦労はないのに、人に作業してもらうための資料というのはどうしてこんなにも面倒なのだろう、と誰しもが考えることを私もまた考えており、疲れ、眠気が襲ってきて、ベッドの上で毛布を蹴とばすようにげしげしと形を整え、その繰り返しを繰り返しながら、ふとカンガルーのことが気になり、カンガルー? なぜカンガルーなのか、何がきっかけなのかよくわからないけれど、youtubeでカンガルーの動画ばかり見ていた。カンガルーは喧嘩をするとき太い尻尾と二本の足を使って、人間のように立ち、そして敵が来ると両手でパンチをするのだが、その姿がユーモラスかつかわいらしく、おじさんのようにだらだら寝ている姿もかわいいし、いつも眠そうなまつげの長い目もかわいいし、でもカンガルー・キックは強烈で、人間を蹴っている動画では人間が尻もちをついており強さもあって、とてもカンガルーが好きになった。とても変な生き物だ、と思ったけれど、変じゃない生き物って、逆にいないような気もした。たいがいの生き物がどこか変だし、たいがいの人間だってどこか変なものだ。普通、というものはなかなか無いし、普通、ってなんだろう、それはつまりありふれたものってことで、アオドウガネは普通で、風邪をひいている私も普通で、ちょっとお高いシャンプーを買い、ちょっとお高いボディーソープも買い、お風呂の道具がどんどん高価なものばかりになっていくことが、すこし気持ち悪かった。何かすこし、たがが外れているような、何か社会のあまりよくない症状に無自覚なまま冒されているような、そんな気持ちになって、そんな時に村田沙耶香さんの『となりの脳世界』を偶然、本棚にみつけ、本棚にみつけたということは過去の私が買ったものなのだけれど忘れており、特になんの感慨もなく読みだすと非常に面白く、この人は文体や文章表現が面白いというタイプではなく、かといって特殊な体験をしてきたというタイプの人でもなく、では何が面白いのかというと、ただ感性が面白いという、あまり読んだことのないタイプのエッセイを書く人で非常に興味深かったし、すごく好きだと思ったし、共感もしたし、そして僭越ながら、というか不遜ながら「このくらいの文章ならはてなブログでも書ける人はいる」と思った。そしてその自分の感想に、自分で考え込む。たしかにとても好きだし面白い本だということは間違いがなく、よしんばブログで同程度の文章を書ける人がいたとしても、村田さんの文章の価値が下がるわけではない。しかしそれならなぜ私は「このくらいの文章ならはてなブログでも書ける人はいる」と考えたのか、それは流通について考えたからだ。ブログに村田さんと同程度の文章を書く人がいたとしても、その人の文章は周知・展開されないので人目につかないし、そもそもその人がどれだけ面白いことを書いたとしても「その人のことを知りたい」と思わなければその文章は読まれない。作家・村田さんのことが知りたい、という意識が読者の根底にはある。作家が書いた本である、ということは、ある程度の面白さが担保されているであろうことを期待しているということだ。つまり作家が書いたものだからこそ安心して読めるのであり、安心してけなせる。お金を払ってそれを買ったのだから。というようなことが無意識下で起きているはずだ。だから結局、ブログにどれだけすばらしいことを書いたとしても、どこの誰だかわからない一般人が書いたものであるなら、そこにはなんの保証もなく、論じたり、何かを感じたりする価値さえ持たれることがない(すくない)ということなのだよな、ということで、ネームバリューというか、職業が及ぼす説得力みたいなものって絶大だなって思うし、だから行列ができるラーメン店のラーメンはおいしいと思うんだろうなあと考え、きもっ、と思う。やっぱり自分がいいと思ったことを愚直にいいと思おう、と気持ちを改にし、村田さんのエッセイはとても面白いと思った。それから猫のスクラッチを抱き上げ、膝に乗せたり、腹に乗せたりした。ばんざいさせたり、空中で一回転させたりした。幸福な気持ちになった。それから妙に不安になった。私はぬいぐるみや人形の目でさえ、ちょっとこわい。目が合うとそらしてしまう。視線恐怖的な感覚は昔からあったけれど、最近はそれがエスカレートしてきているし、何より「私の視線が相手に不快な思いをさせるかもしれない」というスメル幻想的な、自意識過剰的な神経症的な思い込みも割とある。私は目つきがよくないし、人間と目が合うと涙が湧いてくるし、それをこらえようとすると睨みつけているような顔になってしまう。猫と猫が目を合わすと喧嘩の合図だそうだが、だから猫たちは簡単には目を合わせたりしないみたいだが、たぶん私の前世は猫だったんだろう。会社の同僚と激辛の会をやろうという話になり、タイ料理屋で激辛のパパイヤサラダというものを食べた。激辛と書いてあるけれど大したことはないんだろうと決めつけて注文してみたらめちゃくちゃ辛く、ひとくち食べるだけで汗がながれ、口の中に無数の棘が刺さっているかのような激痛が走った。きんぴらごぼうみたいな繊維質の何かと人参ときゅうりと檸檬などが唐辛子にまみれているサラダで、パパイヤなんてどこにも入っていないと思ったのだけれど、あとから同僚が「あのごぼうみたいなやつがパパイヤですよ」と教えてくれてびっくりした。若いパパイヤは固いしなんの味もしない。パパイヤの印象を覆された。そして年末年始の資料作成は今日ですべて終了した。とても疲れた。誰とも話したくないほどに。明日は健康診断がある。健康診断のあとは元・先輩達と小さな飲み会がある。アサッテは休日だったのだが急遽仕事になった。クリスマスプレゼントは用意していないし、おせち料理も予約していない。年の瀬のなんだか気が遠くなるようなうすい空気の中を駆け抜けている。なんだか無駄に忙しいと思いながら、Amazonで人形を買った。人形を買うのははじめてだ。