未だ風邪と共にありぬ

 風邪が治らない。
 なつかしい風邪が治らず、私はベッドに潜り込む。
 1,2年ぶり。
 具合が悪くなってくると部屋が暗くなる。すべての光の強さが3割ほど弱くなる。視界が暗くなり、どうしても部屋が明るくならない。なつかしい症状だと私は思う。風邪の現象を少しずつ思い出していく。光を認識する能力が下がっている時、決まって心も落ち込んで来る。意識が朦朧としはじめ、にわかに混乱が始まる。弱いパニック障様の症状だ。まさに病的な落ち込みだ。
 回復してくると、部屋は光を取り戻す。今までと全体の光量は変わっていないのに、明らかに明るい。
 眠っていると自分の唸り声で目を覚ます。「んうっ!」と小さく叫んだ声が耳のすぐ近くで響き、目を開けると暗い部屋だ。それを夜中に何度も繰り返す。5,6回はそのように自分の声で目覚め、そして気がつくと青い朝がやってくる。寒い朝、凍える空気、軽い視野狭窄、とても重い体、高い壁に囲まれた心、どこへも行きたくない、という思いを気合で吹き飛ばして布団を出て日課のシャワーを浴びる。どんな朝も必ず私はシャワーを浴びてきた。もう20年もずっとそうしてきた。一日が始まる。体力がない日も、気分が落ち込んでいる日も、嬉しい日も悲しい日も、とにかく、なにはともあれ、問答無用で一日は始まる。
 体温計を持って会社へ向かい、OJT中の女の子に「ぼくは今めっちゃ高熱があります」と告げると女の子は「えーっ! 無理しないでください!」と普通のことを言う。「証明します」と言って私は脇に体温計を挟み、アラームが鳴ると体温計を出す。36.7℃だった。女の子は「パン! パン!」と手を叩き声を出さずに笑う。私は「こんなの理不尽じゃないか……熱がなければ具合が悪いって証明できないじゃないか!」と騒ぐ。一体、何度まで熱が出れば休んでもいいのか? 具合が悪いってことを客観的に証明できないから私は、いつまでも証明不能な風邪のまま会社へ通っている。しかも風邪をひいている事を冗談にしてしまうので誰にも心配されていない。なんて無駄な風邪。
 私は赤ん坊の頃に小児髄膜炎という恐ろしい病気にかかり、そこで九死に一生を得た。その病気にかかって治療をしないと50%の人間が死ぬ。治療をして直っても10%~20%において、脳障害、難聴、身体障害などが引き起こされる、とされている。更に、これはとくにネットには書かれていないのだけれど、母が当時の医者から聞いたことには「髄液を生理食塩水に取り換えるのでめっちゃ免疫が落ちます」ということだった。そして私は幸運にも生きながらえることに成功したが、治療の後遺症としてフィジカルがものすごく弱くなった。風邪、インフルエンザとは親友だ。彼らとはずっと一緒にいたし、内科に通っていない時には歯医者に通っていた。私は自分が生きているだけでかなり幸運だと思っている。海で溺れかけたことが3回。自動車事故が1回。私は自分が生きているだけでかなり幸運だと思っている。私は不眠症で対人恐怖症で痔だ。それでもほいほい生きており、身を粉にして一生懸命働き、そして立派な中年になった。すばらしいことじゃないか。窓の外を眺めていた。本を読み、ゲームをしていた。私は外に出るとすぐに疲れ切ってしまう。今でも。それでも生きていればいいことがある、と私はもう知ってしまった。
 風邪をひいていると時々、異様にテンションが高くなることがある。あるいは今この瞬間も、おそらく少しおかしいのではないという疑念がややある。風邪薬を買いにドラッグストアに行ったら、薬剤師の説明を聞かなければ買えないと言われた。風邪薬で説明を聞かされるのは初めてだった。たぶん東横キッズ界隈の影響だろうと思った。
 私は風邪による一種の酩酊感を利用し、空き缶・空き瓶を綺麗に洗浄してまとめたり、ペットボトルをゴミ箱に入れたり、洗濯をしたり、シャワーカーテンを新しいものに取り換えたり、部屋を掃除したり、ふるさと納税をしてみたりした。ふわふわした精神の時に、そういことをすると、面倒くささが2割ほど減少する。何しろ人生で迷っている暇がない。私の現在のもっとも大きなタスクは健康になることであり、それ以外の万事が些事だ。その認識は利用できる。利用できるものはなんでも利用する。健康でいられる日の方が少ないのだから、病気テクニックは必然的に身に着く。
 とにかくたくさん食べる。食べたいものを食べる。とにかく寝られるだけ寝る。首や腰が悲鳴を上げるまで寝続ける。チバユウスケさんが死んでしまった。夢みたいな話だと思った。私はバースデイの曲を聴きながら眠る。夢にチバさんが出てきたけれど、どういう夢だったか忘れてしまった。小林泰三先生も死んでしまった。人はいつか死ぬ。私も死ぬ。風邪を引いた私は顔に化粧水を塗り、乳液を塗る。新しいシャワーカーテンは宇宙柄にした。銀河だ。銀河は広くてうつくしくて寒々しくてとてもいい。ふるさと納税は枕にした。すごく高い枕だ。笑ってしまうくらい高い枕だ。けれどなんでもいいのだ。頂けるものはなんでもいい。お高い牛肉とかいくらとか、そういうものにしようか迷ったけれど、私は今枕がほしいのだ。
 分厚くて大きい本が二冊届いた。それから私はコロコロで部屋を綺麗にした。スパティフィラムの葉の表面をマイクロファイバー布巾で綺麗に拭いた。緑色の艶が戻ってきて、スパティフィラムはとても気持ちよさそうだ。笑っているようだ。白い花はすっかり緑色になり葉に戻っている。サンスベリアの葉も磨くとぴかぴかになって健康そのものという感じがした。ブランド物のバッグが欲しいと思いずっと調べているけれど、いつまでも迷っている。私はお高い買い物をするときには2年ほど迷うことがある。何冊か本を読み終えた。スーパー・マーケットはやきいもの匂いがした。私は誰かを抱きしめる夢を見た。そして目覚めると誰も抱きしめていなかった。私は今すぐに何かをしなければならない気持ちになった。しかし何をすればいいのかわからなかった。