『壁に囲まれた町と、その壁』

 村上春樹『僕たちが超えられない壁とその壁』を読んだ。
 違ったかもしれない。
『僕たちの町とその壁』だったかもしれない。
 本棚にその本がある。
『町と、それを囲む壁』だったかもしれない。
『町および、僕たちの壁』だったか。
 とにかくそういうタイトルの本だ。すこし首を動かせば正解が分かる。しかしなんだか狡をしたような気持ちになりそうなのでそれをやらない。
 久々に本を読み終えたなという気持ちがしている。

 私は村上春樹さんの小説が好きだけど嫌いだ。
 嫌いなところは明確で、セックスが出過ぎることだ。
 毎回毎回、村上春樹さんは“ぼくらは手早くセックスを済ませ”みたいなことを書く。
“ワイングラスを洗うようにペニスを丁寧に磨き”みたいなことを書いている。
“子犬が戯れるような親密なセックスをした”みたいな感じだ。
 またセックスしてるのかあ、いやだなあと思いながら読んでいる。
 なんというかそれは、少年漫画に唐突に挿入されるラッキースケベ的な、ノイズに感じられる。
 もちろん村上春樹の小説だからセックスを楽しみにしています、という人も中にはおられるだろうし、それはそれで構わない。
 ただ、私は嫌だなと思う、というだけの話だ。
 私はセックスよりならまだ、月が綺麗ですね、の方がロマンチックで好きだ、というだけの話だ。
 
※この文章にはネタバレがあります。

 そういう意味でいうと、『僕たちの町と、それを囲む壁』は、村上春樹さんの小説の中で、一番好きな小説だ、と思う。この小説は、セックスが一度も出てこない。セックスしそうだな、というところはあるにせよ、ぎりぎりのところでセックスをしない。とてもよい。私の頭の中でセックスをしないでください。
 現実世界の図書館業務の描写は、結構かったるかったけれど、壁の町の描写は心がおちつく。一角獣たちもかわいい。一角獣たちはなんか、臭くなさそうだ。その臭くなさそうさが、虚構のもつ美しさが、物語のシステムときれいにリンクしている。その町では主人公を脅かすものが何一つない、という感じがとてもよい。精神安定剤的なパートだ。ヒロインの影だか本体だかもロボットのようでいい。予定調和的ですべてが整っていて乱れない。だからこそ、その町のパートは本来、まったく面白くなることがないというか、ヤマもオチもない部分になるはずで、実際に「壁と町の謎」以外に書くことがほとんどないように見受けられたけれど、それでも春樹さんの圧倒的筆力によって、その退屈極まりない世界を少しずつ展開しながら、物語の前進力を保っていた。何も起きない平和な世界って、書くのがとても難しいと思うのだけれど、すばらしかった。こういう何も起きない世界を私も書くことが出来たら、きっと心がとても落ち着くだろうと思ったほどだ。あるいは気が狂うかもしれない。
 現実と虚構を行ったりきたりする物語のしかけがあり、その世界はそれぞれ本体と影が分裂して住まうものとされている。そういえばマジックリアリズムについても言及されていたように思う。でもこの話はマジックリアリズム的ではない。ペドロ・パラモ的でもない。主人公は自分(自分たち)が作った世界にすぽっ、と落ちていく。そこには不思議な生き物がいて、もうひとりの自分や、いつまでも歳をとらないなつかしい少女がいたりする。やがて主人公は自分の力で虚構世界を出て、現実の世界に戻るけれど、現実の世界も少しずつ様子がおかしくなり、虚構世界とリンクしはじめる。最後は主人公がもう一度虚構世界に潜り、現実世界に帰るシーンを示唆して終わる。現実世界に戻ったところで何かが解決したわけではないように思う、というか主人公の現実はとてもあやふやで危うい、変な世界のままだと思う。これはどういう物語なんだろう。
 現実の世界と虚構の世界は相対化されていたように思っていたけれど、それは並列だったのかもしれない。A世界(現実)とB世界(虚構)は、主人公にとってはどちらも主観によって統合されており、主観の置かれた場所は“どんな場所でも”現実としていいのかもしれない。もちろんそこには整合性も秩序もなくなってしまうけれど、A世界(現実)もB世界(虚構)も、どちらも結局は現実風ではあっても現実的ではなかった。この物語は、自分が生きたい場所を自分で選ぶべきだ、という物語なのかもしれない。主人公はA世界(現実)を選び、最後はそこへ帰る示唆が行われるが、B世界(虚構)に住み続けたとしても不都合はない。この主人公は根本的には何も喪失していないように思われる。主人公が恋した女の子が音信不通になったことが主人公を苦しめ、埋められない心の傷になりそれが物語を動かす核になっていたけれど、女の子は物語の早い段階でB世界(虚構)に登場する。そこでひとつの物語が終わっているのではないか。A世界の図書館+パン屋の女主人を選ぶか、B世界の夢図書館+初恋の少女を選ぶか、という、ただその選択をどう行うかという物語が残りで、つまりは大人のモラトリアムなんじゃないか。どの世界を選んだところでいいことも悪いことも、超常現象的なことも起きる。この物語が相対化したのは現実と虚構ではなく、すべての虚構と私(外黒の主観)の世界なのかもしれない。