ああそうか、怪我をした人間を救うためには医師免許が必要なのか、と不意に思った。
いいことをするために資格が必要だということが、ぼくには一瞬、異様なことに思われた。
世界で一番足の速い人間は、誰とも競争していない。
いつも先頭を走っているから。
ということもちょっと考えた。
人を面白がらせるためには、まず自分が面白いと思わなくてはならない、という言葉を信じてきたけれど、もしかしたらそれは少しだけ違うのかもしれないと思い始めた。
悩んだり苦しんだり迷ったりする時間があってもいい。
自分がつまらないと思っていても、たぶんよいのだと思う。
大事なのは、誰かが必要とした時に、それがそこにあることだ。
財布に二千円しか入っていなかった。
新しく出来た雑貨屋に入って、いい匂いのする小瓶と、瓶に差す細い棒を買った。
財布には小銭しか残らなかった。
とても贅沢をしているような気持ちになった。
毎日、ステーキを食べているのに。
家に帰って瓶の蓋を開けてみると、曇り空を映した湖みたいな匂いがした。
「どうしてそんな事聞くんですか!」と女の子は叫んだ。
「これ聞いちゃだめなやつだったかあ!」とぼくは叫んだ。
ぼくは女の子の性質について考えたが、彼女が答えを隠したのは、彼女が女の子だったからではないという結論にたどり着いた。
どんな質問も、答える人は答えるし、答えない人は答えない。
そこに属性は関係がなかった。
宇宙を冒険するゲームをしている。
このゲームの一番好きなところは、宇宙船を改造できるところだ。
宇宙船というのは、そらをとぶ家だと思う。
家にいるまま、窓から星系を眺められる。
丸い舷窓の向こうには真っ青な惑星が浮かんでいる。
あるいは浮かんでいるのはぼくの方なのかもしれない。
というか、この世界に固定されているものは、よく考えてみるとなにひとつ無い。
ぼくの家は宇宙船だ。
窓の外を、のんきなアオドウガネが飛んでいる。
そしてぼくも、ぼくの家も、時速1500キロメートルで移動を続けている。
喫煙所で叱られている人がいた。
叱っている人もいた。
「どうしてお前はやらないんだよ」
というような意味のことを年かさの男が言った。
叱られている人は俯いていた。
(どうしてこんな場所で説教をするんだよ)
とぼくは思った。
カマキリが蝶を捕まえているシーンを想像した。
蜘蛛の巣にかかったアシナガバチもだ。
灰皿に煙草を捨てて立ち去った。
いつか懐かしい思い出になるかもしれない、笑い話になるかもしれない、あるいは呪いとして記憶に染みつくのかもしれない。
けれどまあ、何もないよりはましなのだろう。
朝起きた瞬間に、ぼくのためのオープニングムービーが流れればいいと思う。
かっこいい映像が流れれば、きっと起床の苦しみを、何か他の感情に変えられると思う。
爆発や、カーチェイスや、ぼくのかっこいいポージングや、そういうのがあれば、わらうと思う。
でもそういうものは無いから、うなりながらベッドから降り、窓を開ける。
肉体はなんて重苦しいのだろうと思う。
植物はうつくしい。
かんがえる脳も、あつい心臓も、いきをすう肺も、ふるえる筋肉もない。
花が咲く。
ぼくは美容院で、滝のような汗をかく。
脱水症状が起きそうなほどに汗をかいている。
ぼくは水を飲むことが出来るが、植物は雨を待つことしかできない。
でもやはり、その生き方さえ潔く見える。
人間が動物と違うところは、言葉を使うことができるところです。
というような意味のことが、その本には書いてあった。
動物は、仲間に細かい情報を伝えることが出来ませんが、人間は言葉があるので、自分が得た経験や危険を、仲間に伝えることができます。
と書いてある。
ぼくは考え込んでしまった。
教室にひとり、取り残された転校生と、黒板に書かれた文字。
ぼくはそのことについて考えている。