日本語

 英語の動画をみているうちに、だんだん日本語がわからなくなってきた。
 英語を母語にしている人が、日本語という言語をどうやって学んでいくのかを調べてみると、さらに日本語がわからなくなってきた。
 ぼくは日常会話レベルの日本語が使えるけれど、そもそも日常会話というものが、とても難しい。

 日本語をあまり話せない人が「ここに馬が生えています」と言う。意味がよくわからない。するとその人は「馬が立っています」と言いなおして、なるほどそう言いたかったのか、と理解できる。伝えたいことの言葉を知らない時、あるいは間違って使ってしまった時、このようなことが起こる。このようなことは、日本語ネイティブの人たちの間でも頻繁に起こる。「あっちの箱から、あの長いの取ってきて」と言われた時、どの箱の、何を指しているのか、まったくわからないことがある。「なんですか?」と聞くと、「あれ、あれ」などと言いながら難しい顔をして、しばらく考え込んだのち、「ドライバー!」と相手が答え、なるほどそう言いたかったのか、と理解できる。日本人だとしても、日常会話レベルの言葉を使うのは、至難の業だった。
 日本語をあまり話せない人が「恐れ入ります」と言う。その時のおかしみはなんだろう。その時の、はっとするような感じはなんだろう。急に相手がとてつもなく知的な存在になったような感じはなんだろう。ただの言葉なのに、その人までうつくしくなったような感じは、一体なんだろう。
 日本語をあまり話せない人が「日本語は難しいです」と言う。その時、わずかに優越感を覚える。それから、たしかに日本語は難しい、とも思う。日本語の文法は、SOV型なのだとか。ぼくは文法に詳しくないけれど、「私は犬をなでた」と言われれば、たしかにそれはただしい日本語だと感じられる。しかし、現実にはそのような形だけで日本語が成り立っているわけではない。「犬をなでた私」という形にしても、言葉は通じる。さらに、日常会話レベルにするならば「なでたよ、犬」という言い方もある。沖縄では、犬のことを「イングワァー」というのだとか。となると、「イングワァーなでた」となる。そうなったらもう、日本語なのかさえわからないだろう。もしかしたら、「馬が生えた」という言い方だって、日本のどこかにはあるのかもしれない。難しい、笑えないほど、日本語は。
 日本語を話せるぼくが「ここに馬が生えています」と言う。その時、ある人は冗談だと思い、笑うだろう。またある人は、やはり意味を訪ねるだろう。詩的だと思う人も、あるかもしれない。人の数だけ、きっと違う反応を示すだろう。しかし、ぼくが「ここに馬が立っています」と言う、その時、おそらく大半の人間は、「そこに馬が立っているのだと思っている」と、理解すると思う。言葉と意味が合致した時、どうして意味が通じるのだろう。どうして大半の人間に通じる言葉と、そうでない言葉があるのだろう。
 嫌な言葉があるのはなんでだろう。いい気持ちになる言葉があるのはなんでだろう。
 ぼくはどうやって日本語を覚えたのだろう。言葉のことを、なんにも知らないのに。
 
 小学3年生になるまで、三角と四角の違いがよく分からなかった。言葉と形を、うまく結びつけることができなかった。でも、ある時ふいに、まるで視界がパッと開けたように、違いが分かるようになる。三角は、角が三つあるから三角で、四角は角が四つあるから四角だ、と理解する。日本語を覚えることって、たぶん、その感覚の連続だったんじゃないだろうか。もう覚えていないけれど、きっと、すごく楽しい気持ちだったろう。あたらしい魔法を覚えたような、そんな気持ちだったはずだ。呪文を唱えれば、いつでも頭の中に三角が生まれる。
 せっかく覚えた日本語だから、ひとつ試してみよう。
 明日は、今日よりもいい日になる。