まばらに

読書

 自宅でこれを書いている。今日はいつにも増してまとまりのない文章になるかもしれない気配を感じており、というのも今しがた『目を合わせるということ』モモコグミカンパニー著を読み終えたからで、このエッセイがなんか良くて、思ったより心が振れていた。アイドルグループBiSHの初期からのメンバーのモモコグミカンパニーさんの一番最初のエッセイで、ぼくはBiSHのことをほとんど何も知らず、特に興味があったわけでもなく、「そういえば紅白でものすごく特徴的な歌声の人がいたのはBiSHだったなあ」くらいの知識量で、なぜ読み始めたのかというと表紙をすしおさんが描いているからで、その表紙をTwitterで見かけた時から買おうと決めていた。興味も知識もないけど、でもたぶん面白い本だと思った。そういうことにかけては、ぼくの勘はよく働く。
『目を合わせるということ』は面白かった。モモコグミカンパニーさんの客観性が特に良かった。ほとんど味のつけない素材を丸ごとぶん投げてくるような文体が良かった。話を盛ったり、表現を凝らしたりすることがない、ただ思った事をメモって出しただけみたいな、というか実際そうなんだろうけれど、その感じが帯にあるように『等身大』とか、『ありのまま』というグループ全体のある種のコンセプトと上手く嚙み合っている。それから、ぼくは単純にシンプルな文体が好きだから気に入ったのだというところもあるんだけれど、でもよく考えてみると、何を書こうと思ったのか、という素材の選択というのか、記憶の切り取り方というのか、そういう基本的な根本的な根源的な部分は書くことにおいての個性の、基本的な根本的な根源的な部分なのだから、それが気に入ったのならそれはやっぱり文章の基本的な根本的な根源的な部分を気に入ったということなのであり、ぼくの好み以上の、何か万人に訴えかけるところがあるのかもしれないな、とも思った。いやわからないな、万人に訴えかけない文章なんてあるんだろうか。取説の中にだって詩はあるんだろう。“強く握ると潰れます”とか、そういう文章は涙が出てくる。
 この本にはキラキラした部分がほとんどなく、不安や悔しさやよりどころのない気持ちや存在の不安定さみたいなものが全体の80%を占めており、普通の大学生がどのようにしてアイドルになったかが描かれており、アイドルになった大学生がどのようにアイドルを認識しているのかが描かれていて、章タイトルの『踊ってみた、少しも楽しくなかった』が表しているように、とても正直な文章が書かれており、こういうパンクの部分もやっぱり好きだった。ブコウスキーの『死をポケットに入れて』みたいじゃん? 取り繕ったり飾りつけたりすればたしかに美しい文章ができるのかもしれないけれど、それは届きにくいのかもしれないな、と思ったりもした。仕事の道具をラッピングする必要はない。
 
夜の露天風呂
 
 時計は21時を指していた。町は静かに佇んでいた。
 近所に温泉がある。夜には一度も訪れたことがない。だから行ってみようと思った。
 夜の露天風呂に行こう。
 家を出ると、もう夏ではない空気だ。
 オレンジ色の街灯の下に人影はない。国道にテールランプが連なっているばかりで、無機質が広がっている。
 横断歩道を渡り、セブンを左に曲がって、スーパーマーケットの前の広い歩道を進む。高層マンションに見下ろされている。あの複眼のような窓のひとつひとつに命がぎちぎち詰まっている。
 温泉の看板をくぐり、影の多い廊下をゆくと入口が見えてくる。
 下駄箱に100円入れてサンダルをしまう。はだしがひんやりつめたかった。ぼくの後ろにぴったりついてきた男性が乱暴に下駄箱のふたを閉める。かすかにお線香のにおいがした。
 天井が高いロビーには、数台のソファーが置かれていて、透き通った肌の数人が虚空をみつめて無言だった。受付はアクリル板で仕切られていて、無数の指紋が幕のようになっている。ひびわれた指が入場券を受け取って、代わりに鍵を寄越した。甲高い笑い声が風呂場の方から聞こえてきた。鳥の声のようでもあった。あるいは湯沸し器が軋んだのかもしれなかった。
「男」と書いてある紺色の暖簾をくぐり、脱衣所に入ると全裸の男がいる。
 あらためて全裸の男の実存に思いを馳せる。人間を感じる時、そこには必ず情けなさや惨めさがあるように思う。というよりも、その対極が人間離れしすぎたイメージを担い過ぎた。人間を愛するということは、情けなさや惨めさや、愚鈍さや想像力の欠如や、残忍さや不完全さを愛することだ。それをみつめるということだ。裸ん坊の学生の集団が子猿のように群れてサウナに入って行った。
 露天風呂にはダークブラウンの影がなみなみと満ちている。夜があふれている。月は見えない。透き通って固くなった空気が澄んだレンズになってオレンジ色の照明で照らされた濡れた岩をくっきりと映していた。
 鈴虫の声がしていた。
 
会合

 会合は急遽、延期になった。ぼくは安心した。それからぼくは不安になった。そしてぼくは開き直った。
 何が起きるかなんて、いくら考えてもわからない。
 なるようになるし、なるようにしかならない。
 ぼくのことを考えてくれていない、ということに純粋な喜びを感じる。
 
電話

 就寝予定時刻の1時間前に先輩から電話があり、ぼくは露骨に不機嫌な声を出してしまった。
 先輩は人が寝る時刻に電話をかけてきて、それで何の用かというと、ただ単純に大きいテレビを買ったという自慢をしてきたのだった。
 なんといえばいいのだろう。なんといえばいいだろうか。もちろんぼくは正しいリアクションを取った。でもその正しさで先輩が傷つかないか心配でさえあった。
 たぶん、先輩は、こういう電話のことを「コミュニケーション」だと思っている。
 40を超えて多数の責任を負うようになっても、こうなのだ。
 そこにぼくの価値観と大きな齟齬がある。
 これは誰のどんな会話にも当てはまる齟齬だ。ぼくは人間が悲しくなって泣きそうになる。
 この人たちは死ぬまでこうなのだ。
 話を聞くことができる人間はとても少ない。
 何を話すかが知性で、何を話さないかが品性だ、という言葉をTwitterで見かけた。
 
食事

 姉と姉の友人とショッピングモールに行った。
 そこでぼくは姉に秋物の服を買ってもらった。ぼくは例によって悲しくなった。
 すこし悲しみが強い時期に入ってきたように思う。ぼくは服なんて全然ほしくない。
 服を買う金くらい持っているし、姉に服を買ってもらいたくなんかない。
 ぼくが服を買ってもらったのは、服を買い与えたいという欲求を敏感に察知したからで、そういう性質に名前がついていたように思うけれどなんだったか。
 悪い方の共依存にも似たモデルじゃないだろうか。
 ぼくはただ単純に面白い話をしてちょっと笑っていられればそれでいいのだけれど、ある種の人間はどうしてもぼくに何かを買い与えようとする。
 スチームアイロンやゲーム機や服や酒や食べ物などを与えようとする。
「いやいらねえよ」とぼくは言わない。ぼくはただしいリアクションをする。もはや正しさの定義の問題であるようなきすらしてきたけれど、ぼくは貰い物で今日も生かされていますありがとうございます。
 なんだろうな、ぼくに物を与えようとした人間について振り返ってみると、やっぱり依存傾向が強い人達な気がしてきたな。
 あとはコントロール下におきたい、という欲求なのだろうなあ。
 姉と姉の友人とショッピングモールのハワイアンダイナーで、エッグベネディクトを食べた。
 生まれてはじめて食べたエッグベネディクトは、マックみたいな味がした。
 
警察
 家の裏に警官が数人立っている。
 消防車と救急車が警告灯を回転させている。パトカーも数台止まっている。
 完全な沈黙の中、真っ赤な光だけが騒がしい。
 
金縛り

 何年かぶりに金縛りに遭った。
 体がものすごく重く、動かないけれど意識ははっきりとした状態。
 昔はしょっちゅう金縛りに遭っていたのでもう慣れているけれど、ぼくの金縛りは悪夢的感覚を伴う金縛りなので、金縛りに遭うと無条件で恐い。
 恐い、という感覚と金縛りがセットになっている。悪夢のモチーフが、覚めてから笑っちゃうようなものだとしても、悪夢中には恐怖がついてくるのと同じように、悪夢がすなわち恐怖と直結しているので回避不能だった。
 この金縛りと頭内爆発音症候群的症状がセットになっていることもある。
 ぼくの場合は女性の甲高い叫び声が聞こえることが多かった。母の叫び声であることも割とあった。
 金縛りにもっとも効果があるのはお笑い番組をつけて寝ることで、これをやると金縛りに遭って体が動かなくてもあまり恐くない。
 ギャグの世界では悪夢もあまり機能しない。
 幽霊は性的な話を嫌がる、という説と同じようなシステムなんだろうなあと思っている。
 

 小さな鉢にハーブの種をまいた。
 ものすごく小さな種だ。厚さは1ミリくらいで、長さは5ミリくらい。
 芽は出るだろうか。
 それとも枯れてしまうだろうか。