たべたいものを食べよう

 12個入りの冷凍ハンバーグを買おうかどうか、3日悩んでいる。どうすればいいんだ。冷凍ハンバーグはグレーの薄いボール紙の箱に入っていて、もちろん凍ったミンチで、箱の中に整列している。レビューを見ると「まあまあおいしい」「わたしは好き」「まずくはない」「弁当にはいいけど夕食にはちょっと」みたいな意見が書いてある。すごくおいしいというわけではなさそうだけれど、まあどこにでもある冷凍ハンバーグの味なんだろう、という感じはする。値段も安いから、買ってすごく損するということにはならないだろう。だろうけれど、いつまでも購入に至らないのは、たぶん見た目が全然おいしくなさそうだからなのではあるまいか。写真がボール紙に入った凍った肉。これは、全然、ほしくならない。凍ったハンバーグを見て「うまそう」と思う人はたぶんいないと思う。いないと思うけれど、費用対効果を考えるならやはり買ってみる価値はあると思う。という迷いをずっと繰り返している。もうハンバーグが食べたいという気持ちもなくなっているのに考えている。なぜぼくは3日にわたりAmazonで冷凍肉の画像を見続けているのか。もしこのハンバーグを買ったら――ぼくは毎日、レンジで2分あたため、このハンバーグを食べるだろう。たぶん味がついていないから、ケチャップをかけて食べるだろう。味にはたぶん、そこまで不満を覚えないだろう。ハンバーグは100gだから、主菜になるだろう。普段、ぼくは42g程度のベーコンを主菜にしている。だから量的には問題ないだろう。ぼくは毎日ハンバーグを食べているぼくを想像する。毎日ハンバーグ。大丈夫だ、ぼくは毎日同じ食べ物を食べても何も感じない。そこそこ安く、そこそこ量があり、そこそこおいしいハンバーグのはずなのだ。それはつまり、ぼくのような人間にぴったりのハンバーグだということなのだ。ぼくはそのハンバーグに不満を抱いているところはひとつもないのだ、と不意に気がつく。ぼくはすでに、買ってもいないのに、そのハンバーグに満足している。ぼくはそのハンバーグを食べてもいないのに、もう充分にハンバーグのことを分かってしまっている。どうしてこのハンバーグを買わないのか、わかってきた。ぼくはこのハンバーグに何も期待していないのだ。このハンバーグを得ることで何か自分に利することがあるかといえば、特にないと思っているのだ。ほしくない、わけではない。ただ、積極的にほしいと思う理由がない。積極的にほしいと思う理由がないということは、つまり現状維持と同程度の価値しか感じていないということだ。そして現状維持でいいなら、新しい挑戦をするだけ労力と気力の無駄だ。つまりそれが買わない理由、迷い続ける理由ということなのだ。ぼくは、このハンバーグを、買わない。決意した。そうすると、ハンバーグに使おうと思っていた資金を、ほかに回すことができる。たんぱく質がいいな、と考えている。それから、たんぱく質!? と思い返している。ぼくは食べ物が欲しかったわけではないらしかった。たんぱく質は、食べ物ではない。ぼくは、具体的に食べたい物があるわけではなかったのか。動物に餌をやるように、あるいはゲームキャラクターに力の実を食わせるように、ぼくは自分にたんぱく質を与えているのか。それは、人間のたのしみをひとつ、うしなっているように思われた。生きているうちに、生活というシステムがぼくから人間性をすこし、奪っていた。
 たべたいものを食べよう。