全人類ゲーマー仮説

 物理マシンで仮想化アプリケーションを使用して仮想マシンを起動し、仮想マシン内でデータを処理する。そこで処理したデータは物理マシン上のストレージに保存されるわけだから、物理マシンからアクセスすることができる。この時、物理マシン上でデータ処理をすることと、仮想マシン上でデータ処理することと、何が違うのだろう。何も違わない。データ処理を行う場所が異なるだけで、処理結果は同じだ。
  ぼくは人間だ。物理肉体を有しており、精神がOSとして起動している。ぼくは、自分以外の人間と話すことができる。話すと何らかの感情が発生する。楽しい会話だったら笑うし、つまらない会話だったらつまらないと思う。これは脳がデータ処理をした結果だ。楽しい入力があると楽しかったという感情の出力がある。
  ぼくは時々ゲームをする。ゲーム内のぼくは、ぼくとは似ても似つかないキャラクターであることが多い。違う肉体を有しており、違う価値観を有しており、違う人生を歩んでいる。にも関わらず、彼はぼくの分身として振舞う。そしてそのことに、ぼく自身は特に違和感を覚えない。ゲームをしている最中に“この人はぼくじゃない”と、考えたりしない。考えたりしないからこそ、ぼくはゲームで感動したり、楽しい気分になったり、時には悲しい気分になったりする。つまり感情移入する。そして感情とは物体を持たぬデータである。
  もしかしてゲームや映画や読書をしている時、ぼくは仮想化された世界を歩いているのか? ぼくは物語世界に肉体を持っていない。ゲーム内では物理世界の仕様とは全く違う構造の世界かつ人物ではあるけれど、そこで発生した感情や経験(=データ処理)は、現実のぼくの脳に書き込まれている。物理マシン上のデータ処理と仮想マシン上のデータ処理の振る舞いは同じだから、ぼくがゲームをする時、逆説的にぼくはゲーム内に仮想的な存在として存在し世界に介入している。
  ということを考えた後、この発想自体はずっと前からあって、SF作品では使い古されたテーマだったなあと思い直したし、哲学にはシミュレーション仮説もあった。実際に“この現実”がめちゃくちゃ性能のよいコンピュータの演算結果だとしてもぼくには別次元の親マシンを観測できないからあまり気にならないんだけれど、もし誰かが“ぼくをプレイ”していたら、と考えるとちょっと愉快だ。もうちょっとぼくに課金して楽な人生にしてほしい。
  この間ヨドバシカメラVRゴーグルを試してみたんだけれど、どんどんリアルになってきていた。ファミコンVTuberもバーチャルで、そのうちこの現実もマトリックスみたいになるんだろうなあと思う。仮想世界内(ゲーム内)でぼくが無暗な冒険に突っこんでいくように、ぼくはこの物理世界を仮想世界と同じように扱って、冒険の日々にしてみてもいいのかもしれない。物理マシンは仮想マシンと違って壊れるととても面倒なことになるし、この物理世界が仮想世界のように魅力的でないという難点はあるけれども、ぼくは一日にゲームを16時間やるくらい好きだから、クソゲーだって好きなのだ。
  そういえば脳科学系の本に“脳は想像と記憶を区別しない”というようなことも書いてあった。ということは物理現実だろうが仮想現実だろうが結局はぼくが現実だと認識している現実が現実だ、ということになるんだろう。それならぼくはこういう風に言い直すべきかもしれない。
  全人類は一日に24時間ゲームをしている、と。