雑文

 何年かぶりに国語の教科書を読んでいて、“想像してみよう”という言葉があり辟易とする。想像してみよう。それは自然と起こることであり他人が促すようなものではなく、また指図されて出来るようになるものでもなく、ユニークな現象ではなかったか。ぼくが国語教育の嫌だったところはまさにそういうところで、好きなように読解したり好きなように想像したりするからこそ文芸は面白いのであって、間違っていても異様でもよくて、そこから学びがあるのであって、どんな指示も必要ないし、指示された途端に霧散してしまう、実行不能となってしまう事象もあると思うのだ。下品な例えをさせてください。おしっこをする時、真横から誰かにじっと見つめられていたら出るものも出ない。“想像してみよう”には、そんな気持ち悪さがつきまとう。想像とは自然発生的なものであり、養殖の想像はどこかいびつだった。望まれた形がそこにあるような気がしてしまう。指示者の想定通りの想像をしていなければならないように思ってしまう。それは全然想像ではない。捏造だ。
 ゲームで重要なのは想像力だと思う、ということをこの間書いた。友人と話していてもそのような結論に至った。想像力は重要である、しかし何にとって重要であるかというと面白さにとって重要であるということで生活に必需品であるということではないし、想像力が少ない人間が劣っているわけでもないと思う。想像力はゲームを面白くするけれど想像力が少ない人はゲームが面白くないというわけでない。ゲームには様々な側面がありグラフィックに惹かれる人がいてもいいし音楽に耽溺する者があってもいいしプレイするというゲーム性自体が好きであることもあるし勝ち負けの競技性を愛していてもいい。好きにやればいい、ゲームなんだから、そして好きに出来ることが幸福であることなんだから、ゲームなんだから。もし指示されてゲームをすることがあれば、ゲームは途端にクソゲーになるだろう。学校教育にゲームが取り込まれることがあったとしたら、それは抑圧と偏見を生みつけるだろう。だからぼくは人にオススメするということが今でもすごく苦手だった。攻略本も苦手だ。攻略本は攻略本として面白さはあるけれどそれを使ってゲームをスムーズに進めようと思ったことはまったくない。魔王を倒しに行こうと決意を固めた勇者が村を出る時、小脇に攻略本を抱えてたらそれはもう勇者ではないし冒険ではない。
 ゲームをしている時、読書をしている時、時々超集中モードに入る。時間も感情も思考も言葉もストレスもすべてが消え去った忘我、無我の境地の涅槃ニルヴァーナへ至るチクセントミハイ氏が提唱したフロー体験、ゾーン、悟り、完全な無の状態へと回帰した精神状態となり、ぼくが読書、ゲームが好きなのは、この体験を求めているからで、この体験がないならゲームも読書もしていないんじゃないかというのがぼくの最近の考えの主流になってきました。ハイコンセントレーショントランスフォームした完全体のぼくは、ではその状態を他の作業に転用することは出来ないのかと研究を重ねてきたけれど出来なかった。できません。ここに才能とか個性とか環境とか適性とかがおそらくあり、ぼくはそれをゲーム・読書でしか発揮することができないが、他の人はサッカーだったり野球だったりペインティングだったりけん玉だったり、人それぞれのハイコンセントレーショントランスフォーム現象があるのだろうなで研究は終了しています。要するにそれが好きのことで、楽しいのことで、やりたいことの根幹ということになろう。だから自然発生的なこの現象をみつけることというか、誰にでも起きるこの動物的本能的本質的根幹的現象が生きる指標でよい。まあまあ長い事生きて来たけれどこの現象以上に生きている実感、満たされた感じ、自己が自己である感じというのはなかった。単なる快楽ではなく、もっと核心的な現象なんだと思う。そしてそれでさえ人生のとある側面を満たすに過ぎないということは言葉にすると頭がかゆくなることであるにしたって。にんげんだからたしかなものが欲しい、ぼくだって奇跡の再現性を求めている、偶然なのか錬金術なのか科学なのか、それさえも曖昧なまばゆい光に手を伸ばしてみる。イカロスっていいよな。馬鹿っぽくて、まっすぐで。
 なんの話だったか。テーマとか何も考えずに書いているのはいつものことにせよ今日はいつもより筆のすべりがっょぃ。何も考えられない時はエッセイ的なことが書けるはずもないので思考を素材をまるごとドーンと出すことでぼくはそれを俯瞰し、整理しているらしい。全然話が変わるんだけれど『それでも歩は寄せてくる』というラブコメアニメを観て、懐かしい王道ラブコメを久々に見たという興奮、を個人的に感じたわけでラブコメは割と好きなんだけれどヒロインがしょっしゅう恥ずかしがっていて“恥ずかしさは高級な感情です”って太宰が書いていたのを何度でも思い出していた。ところでこのアニメにサクラコとタケルっていう主人公とは違う幼馴染カップルが出てくるんだけれど、このサクラコのほうが不都合なことが起きるとタケルに催眠術をかけてパシらせたりするのね。タケルがチープな催眠術にすぐかかっちゃうの面白いねアハハというギャグなんだけれど、その文脈はわかるんだけど、それでもサクラコがあまりにもクズ過ぎてだんだん観ているのがつらくなってきた。催眠術で幼馴染に無理やり言うことをきかせる奴、好きになるか? 絶対ならない。ぼくの周りにそんなやつが居たら近づきもしないなと思った。一度でもサクラコがタケルを催眠術で支配してしまったら、もうタケルはサクラコのことを信用することは不可能だと思う。自分の気持ちが催眠術なのか本物なのかわからなくなる。自分のあらゆる行動を一生疑い続けなければならなくなる。自分が自分でなくなるということはきわめて恐ろしいことだ。ギャグなので1回2回は理解できたけれどタケルが嫌がってるのにサクラコが催眠術をかけようとしはじめた段階ですこしおかしく感じた。さらにラスト付近では花澤さんのキャラがヒロインにものすごくしつこく恋を押し付けるムーブをしはじめ吐き気がしてきた。この話は支配的・洗脳的なキャラクターが多すぎる。人の気持ちを操作する系の人間が気持ち悪すぎる。というかメインテーマの『将棋』が全然描かれない。ラブコメって難しいんだなとつくづく思う。
 『ファーザー』という映画を観た。ここ最近観た映画の中でもっとも恐ろしい、人間の存在の根源にせまるホラーだった。ホラーではない。でもホラーだった。ぼくが今まで観てきた恐い物語の一番は乙一さんの『失はれる物語』だけれど、設定の段階でそれを超えたかもしれない。『失はれる物語』も最悪の最悪の最悪で、人間に起こりうる状況の中では最大くらいの苦痛がそこにあると思うけれど、『ファーザー』的な恐怖はそれとは別ベクトルで恐怖だと思った。それは両作品とも単なるフィクションではないというところに感情の根拠がある。観ているだけで気が滅入ってきて、人生がどんどんつらいもののように感じられてきた。生きるってことはこういうことなのか、と分からされた。現実がなんかつまらなくなったら気付け薬的な運用が可能かもしれない。今を精一杯生きようと思える映画だった。