ありのまま/強み

ありのまま

 ありのままを話そう。という意識が芽生えているのは運転適性検査の結果故であるが、ありのままに振る舞っている人間なんて本当にいるんだろうか、というのがぼくの正直な感想だが、ぼくが今まで生きてきて、ありのままの人間に出会ったのは一回くらいしかなくて、その人は「声優をレイプしたい」と言って笑っているような人だったんだけど、ぼくはその人がかなり好きで(面白かったから)、そしてもちろんその人は声優をレイプしたりはしなかったんだけど(してるかもしれないけど)、そういうありのままを本当に世間の人間が求めているのかというと、そんなことないよなと思っていて、だから結構ありのまま教がぼくは好きじゃないんだけど、ありのままに振る舞っていたら人間社会は一瞬で崩壊すると思うんだけど、だからありのままについて懐疑的なんだけど、それでもありのままでいることは貴方にとって楽です、大事です、みたいな論理が理解できないわけではなく、結句、程度の問題だよなとは思うので、ありのままでいられる場所を得ようぜ、ほどのレベルで解釈していていて、ほどほどのありのままをここに書くと、ぼくはバイクで暴走したい。

 と書くと、まるでぼくが珍走団志願者、であるかのように思われるかもしれないが、というか根本的にはそうなのかもしれないが、ぼくは時速40キロで暴走したい。時速40キロは暴走ではない、と思うかもしれないけれど、石垣島で乗り尽くしたスクーターはぼくにとってまさに時速40キロの暴走で、それは自由というものの理想的な姿のひとつでさえあったのだ、自由を感じるぼくが自由であるということがキー・ポイントで、ぼくはぼくが自由だと思えればそれが自由だと思っているから、時速40キロの暴走をしたい。特にこの話には教訓とか主張とかはない。ありのままをしてみているだけで。

 ありのままでいれば楽だよ、楽しいよ、という論理への共感は前述のとおりだけど、ありのままでいることが他者にとって心地よいとは言ってない、という論理も見えてくる。誰かのありのままは誰かの邪魔になるし、目障りにもなる。ありのままであるということはその敵視やルールとのバトルなどを意味しているってことにも無論気がついていて然るべきなのだが、ありのまま教の文言にはそのような障害へのアンサーは無いように思われる。あるいは他者はそれほど貴方のことを気にしないよ、などとたぶらかしの言葉を投げかけてくるにはくるが、でもそういう無垢っぽい人に、声優をレイプしたいです、って言ったらどうなるんだろう。たぶん、ありのままに否定されるんじゃないかなと思う。ありのままという言葉を肯定的な側面でしか用いないのがありのまま信者であり、ありのままを肯定することが出来るのはありのままでいることを必死で我慢している人だけなんじゃないかと思う。猫の地球儀のテーマでもあるけれど、「おれの中でお前はそういうことをしないことになっている」だ。太陽の周りを地球が公転している、といっただけで殺されてしまう時代があったように、ありのままは今だって充分に危険なんじゃないのか。ってありのままにぼくは思う。危険を覚悟でありのままをするのなら、それはそれでいいと思う。何をしたって代償はつきまとう。呼吸をするな、それ環境破壊だぞ。みたいなことだって言おうと思えば言える。ぼくは時速40キロで暴走したい。人も車もいない草原で、ひとりで勝手にころびたい。

 

強み

 以前、とある人に教えてもらった「ストレングスファインダー」というものをやってみたのは、前述の運転適性検査の結果がごみかすだったからで、では、そんなぼくには強みというものがあるのだろうか、という疑問が強い動機となり、記憶の底からストファイを引きずり出した、機が熟した。ぼくは行動が人の3倍遅いけれど、やりたいことは心の中でずっとずっと熟成を続けていて、中学生の頃ものすごく憧れた、夢にまで見たバイクを、今になってやっと乗り始めるような、人が1年で済ますことを20年かけてやるような、そんな人間です。

 ストファイとはどんなものかというと読んで字のごとく被験者の強みとは何かを露わにするテストみたいなもので、ぼくの強みの上位5つは「回復志向」「内省」「成長促進」「共感性」「分析思考」だった。ふーんなるほどなあと思って、それから丸一日かけて考え「助手席じゃん」と思った。ぼくは以前からずっと自分が助手席の人間だと思ってきて、そしてそれをここに書いてきたように思うが、テストの結果もまさに助手席の人、であることを表しているようで、つまりナビゲーター的な部分が強みなんだと思うし、実際、ぼくはリーダーの影で暗躍するサブリーダー的な立ち回りが自分でも上手いと思う。人をどこかに導いたり、笑わせたり、良い点をみつけたりするのが好きだし、そういうことをしてきた、わけなのだが、運転適性検査の結果に「人づきあいをあまり好まず、人の気持ちをうまく察することが不得手なようです」という結果もあって、ストファイの「共感性」と相反する結果も出ていて興味深い。どっちやねん、と思うこともなく、どっちもなんだよな、と思う。人づきあいが嫌いなぼくもいれば、人を導いたり笑わせたりすることに喜びを見出すぼくもいる。人間を避けることもあれば、人間を求めることもある。どっちでもいいし、どっちもいい。ただ、人を避けるぼくより、人を助けるぼくの方が「強み」であることはおそらく間違いないのだろう。五つの強みの中で、特にこの文章群で顕著なのは内省と分析思考だなと面白がっていて、なぜこうなるのか、ということをたしかにぼくはずっと考えていて、それはどうしたら解決するのか、ということも考えていて、そして考えるだけであっという間に時間が過ぎていく。それで、ぼくはそういうことを考えているけれど、そういうことを考えているということが、たぶんうまく伝えられていないんだろうな、と思う。ぼくはたまに人間の暗い部分を書くけれど、それはなんというか、ぼくが人間の暗い部分を見下しているように見えているんじゃないだろうか、となんとなく思った。たとえばぼくは不眠症で対人恐怖症でいつもめまいがしていて対人的な体力が極端に低く神経質だけれど「だから悪い」とは全然思っていない。それは自己紹介でしかなく、こういう特性がありますよ~~んくらいにしか思っていない。寝れないなら睡眠薬を飲めばいいし対人恐怖なら人に会わなければいいし、生きづらさマックスでもおっさんになるまで生きられる裕福な世の中なので、そんなことは大して気にしていない。文脈的に「つらい……」みたいに見えるかもしれないけれど「つらい……疲れた……」と思うことはもちろんあるけれどそんなことが書きたいわけでは全然ない。ぼくはぼくを面白がれる人に向けてこれを書いている。なぜならぼくにとって「おもしろい」は生きる意味そのものだからだ。ぼくはホモルーデンスだからだ。ぼくはエンタメではない。しかしぼくをエンタメとして見てもまったく問題はない。ぼくは「声優をレイプしたい」と言った人を哀れんだりしてもいないし遠ざけたりもしていないし見下したりもしていない。彼は立派な人間だからだし、おもしろい人間だからだし、尊敬できる数少ないありのままさを持った人間だからだ。その人はぼくと話すと「やべえ、外黒さんと話すと自己肯定感あがるぅ!」と叫んだりする。ありのまますぎてすごい面白い。そしてぼくの「成長促進」が発揮されすぎていて、いまぼくは強みとは何かを知る。ぼくは助手席であり教師でありカウンセラーでありキャバ嬢であり、バフ係である。なぜそうなのかというと、不眠症で対人恐怖症でいつもめまいがしていて対人的な体力が極端に低く神経質だからなんだろう。ぼくは生まれつき弱いので、ぼくにはあなたの弱みがはっきりと見えている。そしてぼくはあなたの問題を解決する瞬間を虎視眈々と狙っている。できればもっと華やかな強みがあればよかったのだが、やっぱりぼくは暗闇の中から見える光が好きだ。