そういうことがはなしたい

 OJTをしている。ずっとOJTをしている気がする。
 
 この間までは新卒の女の子をOJTしていた。物覚えがよく、理解も早く、話していても嫌味のない、すばらしい人材だった。もう少し挨拶や、お礼や相槌などが出来るようになれば、どこに出しても恥ずかしくない社会人になるだろう。しかしまあ、ぼくが気を揉むまでもなく、きっとすぐに成長するはずである。何しろまだほとんど大学生なのだから、これからいくらでも伸びていく。スパティフィラムのように光を目指して、気持ちのよい人間になってください。とぼくは祈っている。
 
 最近は40代の男性をOJTしている。くたびれた顔の、やや小太りなおじさんである。物覚えが悪く、理解は遅く、眠くなってきたとか疲れたとかを平気で言う。舌打ちもたまにする。どこからどう見てもフレッシュさのかけらもないおじさんである。はっきり言って全然やる気がない。何度教えても作業を覚えないし、ぼくが指示をする前にあらゆるボタンを押そうとするので目が離せない。ボタンをひとつ押し間違えたら一発で始末書の現場であるから、不安である。前の職場では、よくわからないままに作業を続け、おしゃべりで誤魔化しながら仕事してました、がはは、ということでした。人間を比較したところでどうしようもないのだが、前述の女の子とどうしても比べてしまう。あまりにも差が大きすぎる。ぼくもいつかこんな40代になるのだろうか? なりたくない。とても不安である。しかしまあ、このおじさんには、このおじさんなりの人生があって、そこにはきっと夢や希望だってあるのだろう。これから光り輝くことはないだろうけれど、味のある感じで鈍く光っていけばいいと思う。雑草のように、踏まれてもすぐに立ち直って、気持ちのよい人間になってください、とぼくは祈っている。
 
 おじさんも女の子も、おしゃべりである。
 ぼくは無口である。何もしゃべらない。しゃべらないという個性が強い。おしゃべりな人と無口な人が一緒に過ごすと、必ずおしゃべりな人がしゃべりだすということになる。自然、無口な人は聞き役に回ることになる。ということでぼくは聞き役が多いのだが、おしゃべりな人で面白い話をする人というのはほとんどいないな、というのが長年聞き役をしてきたぼくの率直な感想です。普段、あまりしゃべらない人の方が面白い話をしてくれる。たぶん、無口な人というのは、自分の世界の力があまりに強すぎるために話題を、外の世界のおしゃべりコードに上手く合わせることができないのだろうと思われる。あるいはおしゃべりな人の中にも話の面白い人がたまにいるけれど、そういう人たちのおしゃべりには、必ず自分なりの深い洞察や内省や新しい角度の視点がある。ぼくはそういう話が好きなのだが、そういうおしゃべりをしてくれる人はとても少ない。面白い話をしてくれる人でも、いつも面白い話をするとも限らない。
 
 ぼくが面白いと思う話、好きな話を具体的に書こうとすると、まず最初に思いつくのが「死んだ親父の骨を砂時計にしたい」という話しである。この言葉は忘れられない。すっごく面白い話としてぼくの中に大切にしまわれている。このお話をしてくれたのはアジア系のハーフの後輩で、彼は常に面白い話が出来る稀有な人間だった。そのパーソナリティーは、しかし今考えてみると異文化の面白さだったのかもしれないと思う。とても明るく自由で、とても適当で楽しい人間性は、彼の出生とやはり関係があるのだろう。父親の骨を砂時計にしたい、という話をしてくれるのは彼くらいだったし、おそらくこれからも現れないと思う。ぼくは芸能人にも新しい車にも高価なレストランにも興味はないし、そもそも知識ベースの話に対して「ネットで調べれば分かる話なので、わざわざ聞く必要もないな」と思ってしまう。父親の骨を砂時計にする話は、ネットで探しても絶対に出てこない。その意味や味わいも、彼が話すから価値があることであり、彼が話してくれたから面白かったことだ。それがオリジナリティーだ。
 
 もっとたくさんの人間が、自分にしかできない話をするようになればいいなと思う。
 という長い前置きをしたあとで、ぼくが今日一番話したかったことを書こうと思います。
 今日は、大きいダンボールと細長いダンボールを、部屋のちょうどいい位置に置きました。
 ちょうどいい位置にあるダンボールは、邪魔でないのはもちろんのこと、部屋のあらゆる物体との完璧な調和を成すものだと思いました。
 ダンボールをちょっと動かすだけで、まるで眺めが変わってしまったので、感動しました。
 たぶんこれは日本庭園的な美的バランス感覚なのだよな、と発想します。
 机の上の消しゴムの位置を少し変えるだけで、世界はがらりと変わります。
 そういうことがはなしたい。