おれを褒めちぎる日

 今日はしんどみが溢れ、頭が熱を持ち、心臓が変拍子を奏でるので、そこで危機感を覚えたので、俺は俺を褒めちぎる日を制定した。今日がその日だ。吉日。
 俺たちは俺たちを褒めちぎる日を制定すべきだ。誰にでもその日は必要なのだ。己が己を見つめる機会を持つのだ。汝自身を知れ。これは古代ギリシアの格言だそうだ。
 俺は俺を知る機会を設けた。だが、俺は俺の弱い点を、今日は見つめない。なぜなら俺はいつも自分の弱い点しか見つめないからだ。俺は俺の弱い部分を十分すぎるほどに知っている。だから今日は俺の良い点を、俺自身が認め、そして俺自身が褒める日としたのだ。自分を褒めるということは、馬鹿げた行いであるように思われるが、自画自賛は恥ずべき行為だという先入観が俺にもあるが、その壁を乗り越えた先に俺を褒めちぎる日はある。人間は自分自身を褒めるべきだ。あるいはこう言い換えることも出来る。せめて自分くらいは自分を認めるべきなのだ、と。
 自分の弱さを認めよう、という言葉は聞こえがいい。しかし自分の強さを認めよう、という言葉は途端に傲慢に聞こえる。しかし、本来はそれでいい。弱さも強さも、すべて認めるがいい。どちらも受け止められる器になろう。俺は俺を褒めちぎる。俺は俺を褒めちぎることで、自分を気持ちよくさせる。俺は俺を褒めちぎることで、俺を励ます。俺は俺を褒めちぎることで、俺自身を認める。俺は俺を褒めちぎることで、俺の人間強度を上げる。俺は俺を褒めちぎることで、俺の新しい価値観を発掘する。俺は俺を褒めちぎることで、俺を好きになる。
 だめだ、褒めるところがさっきから全然みつからない。
 
 俺は今日もOJTをした。とてもえらい。ずっとOJTをしていてえらい。それで疲れ切って何分か仕事中に放心したけれど、そんなになるまで頑張ってすごい。俺はとても頑張り屋だ。もう少し頑張らないようにしてもいい。でも頑張ったのでかっこいい。かっこよすぎる。前から俺は俺のことがかっこいいのではないか? と疑っていたけれど今日で確信した。俺はかっこいい。どこがかっこいいかというと、利他的な精神が備わっているところがとてもかっこいい。アンパンマン的なところがある。俺は俺の顔が再生するのなら喜んで肉をちぎりカバに渡すだろう。すごい、神のようですごい。俺が今日、残業したのはOJTの相手のおじさんが残した仕事を片付けるためだ。それに、明日の朝は新卒の女の子の番なので、彼女になるべく仕事を残したくなかったからだ。きっとたくさん仕事が残っていたら困ってしまうだろうな、と思ったからだ。俺は本当に思いやりのあるいい人間だ。他人のために力を尽くすことができる。他の人間にはとても真似ができない、すばらしいことだ。俺は真夜中に電話をかけ、その相手にほがらかな笑み声で話しかけることができた。すごく感じのいい喋り方だった。電話の相手も軽妙に返事をしてくれた。いいコミュニケーションだった。ああいう瞬間というのは気持ちがいい。言葉が通じるということ以上に、気持ちが通じているのがわかるものだ。そういう感情の機微がわかるところが俺の魅力的なところだ。俺の魅力的なところといえば、最近お肌がすべすべになってきたことだ。ちょっと高い洗顔フォームを買ってみたら、安いのとは全然違う肌の感じになった。毎日の生活をいまだに改良し続ける胆力、見事だ。俺はあっぱれだ。俺はいい歳だが、いい歳のわりにはそこそこにみずみずしい感性を保っている。素敵だ。俺は素敵だ。俺は少年のように素敵だ。いや少年は小汚いからやめよう。かつて少年だった俺から言わせると、少年の8割は小汚いものだ。俺は清潔だ。俺は毎朝シャワーを浴び、帰宅したら30分入浴する。非常に清潔だ。清潔な好青年だ。ハンドソープで手を洗い、わき毛も剃っている。なんて完璧な身だしなみなんだろうか、ほれぼれしてきた。しかし髭剃りが下手なので顎から血が出ている。ワイルドすぎる。こんな俺を俺は好きだ。俺は俺が好きだ。俺は最高だ。俺はこれから雀の本を読む。まさか、俺にはかわいらしい面もあるというのか。完璧すぎる。