日記

 サプライズバースデーをした。
 
 サッカーの観戦をした。優勝した。
 
 バグダット・カフェを見た。たった今見終わったばかりなので吐きそうだ。久々に映画を観て、巨大な感情に衝き動かされ、吐きそうになっている。実にひさしぶりだ。以下ネタバレを含む。
『バグダット・カフェ ニュー・ディレクターズカット』
監督 パーシー・アドロン 
出演 マリアンネ・ゼーゲブレヒト, CCH・パウンダー, ジャック・パランス
 この映画の存在を知ったのは10年以上前だった。たしか乙一氏のエッセイの中に名前が出て来たと思う。それからずっと見たいと思いながら10年以上の年月が過ぎていた。今見れて良かったと思う。
 アマプラのジャンルでは「コメディ・ドラマ」になっている。ドラマではあっても絶対にコメディではないと思う。サブジャンルとして「感動的・奇妙な」が含まれていて、たしかに感動もあるけれどそれはメインではなく、奇妙な、の割合がとても大きかった。
 すさまじく奇妙な映画だ。でもどこが奇妙なのか自分でもいまいち判然としない。しかしこの独特の奇妙さ、全編を貫いている微妙な違和感がこの映画の魅力であることは疑いようがない。
 物語の題材はどこにでもあるヒューマンドラマで、寂れた砂漠のカフェに現れたドイツ人の女が、その小さなコミュニティーに再生をもたらす、というものだ。異文化的な交流が描かれ、価値観の交換・交感が描かれ、喪失は友情や人間同士の自然な愛によって埋められていく。どこにでもあるといってしまっていいくらいの題材だ。そういうシナリオであることも分かる。しかしそんなに簡単な映画ではないような感じがする。というか、ただそれだけの映画なのだとしたらこの作品はたぶんもっと売れて有名になっていたのではないかと思う。そういうメジャーな路線ではなく、わかりやすい感動ではなく、もっと異質な何かが常に裏で蠢いている。それはなんというか、むりやり言葉にするなら「移民感」なのではないかとぼくは思う。この映画でしばしば流れる有名な楽曲『calling you』にもそれは現れていて、ずっと「どこかに行きたい」=「ここは居場所ではない」という感覚が漂っている。この映画は、ぼくが、ぼくたちが慣れ親しんできたドラマ的な文脈とはまるで違う文脈で表現が行われている。ドラマ自体は退屈だし、登場人物はみんな行き詰っており、生活の苦しい圧力を嫌というほど感じさせるし、かなしさやさみしさは表面的にもかっちりと描写されているので見るのに体力を使う。それでも最後までぼくを惹きつけたのは、この映画が最後まで本質的に何を描きたかったのか、その焦点が常に浮動し続けるからだし、そのシナリオのピントのぼかし方をぼくが体験したことがなかったからだし、結局最後までこの映画がなんの映画だったのか、はっきりとした答えがみつからなかったからだ。その答えは結局、夫と喧嘩別れして砂漠をさまよっているドイツ人の女、ジャスミンにあると思う。ジャスミンとは一体なんだったのか?
 書きながら考えるうちにだんだんわかってきた。この映画の主人公は二人いて、ひとりはジャスミン、もう一人は砂漠のドライブ・イン「バグダット・カフェ」を切り盛りするブレンダだ。ブレンダは冒頭でグズの夫と喧嘩をし、夫は家を出る。ブレンダの息子はピアノに夢中だし、娘は遊び放題で派手な格好をして家に寄り付かず、赤ん坊は泣きわめき、ガソリンスタンドの仕事とモーテルの仕事とカフェの仕事をブレンダが一人で仕切っている。ブレンダの物語は単純明快であり、それはこの物語の中でそれなりにきちんと解消・回収される。ジャスミンの登場によって固く凝ったブレンダの心はやわらかくなり、仕事は上手くいき、娘も勉強をするようになり、息子は音楽の才能に目覚める。しかし、ジャスミンは最後までよくわからないままだ。ジャスミンはドイツ人の太った中年女で、夫と喧嘩別れして砂漠を放浪している、ということ以外にはほとんど何者なのかわからない。そもそも砂漠を抜けてどこへ行こうとしていたのかも不明瞭だし、ドイツでどんな仕事をしていたのか、なぜ砂漠のモーテルに滞在したのかも不明瞭だ。この情報は意図的に注意深く排除されている。この物語が最後までなんとなく難解なのは、このジャスミンが何者であるのか、ジャスミンの望みがなんなのかが全く分からないからだ。そういう風に作ってある、ということがわかれば充分で、あとは解釈の問題だった。この映画は名作かもしれない。と同時に、ヒューマンドラマでもコメディでもなく、ある種のファンタジーなのかもしれない。
 物語の冒頭部分でのジャスミンは、意地悪で気の強い女に見える。けれどバグダットカフェについてからのジャスミンは物静かでミステリアスだ。ジャスミンは過去を捨て、自分を変えようとしたのかもしれない。というよりも、ジャスミンの「属性」が排除されているということは、そもそもジャスミンは人間らしい人間として描かれていない。ブレンダにとってジャスミンはエイリアンのようなものだ。ジャスミンの人間としての背景は、砂漠のカフェではまったく無価値であり、ほとんど気にもされない。ジャスミンに残っているのは、人間性そのものだけだった。ドイツ人であるとか、職業がなんだとか、どんなことをしてきたかとか、そんなことはすべてリセットされ、人間としての人間性だけが抽出された非人間として描かれている。それはもう妖精と一緒のものなのではないか? ブレンダはエイリアンだと思っていたジャスミンをだんだんと理解し、ジャスミンを人間扱いしはじめる。ジャスミンもそれに応える。しかしブレンダ目線ではなく、ジャスミン目線でジャスミンを眺めると、そこにはやはり人間として空白のままの何者かがある。うつろいゆくものの象徴としての人間という感じがする。やっぱりファンタジーでもドラマでもコメディでもなく、この映画はヒューマンそのものかもしれない。