蜘蛛は去った。彼らは春の終わり頃から姿を見せはじめ、夏には部屋を闊歩するようになり、秋になると消えてしまう。死骸のひとつも残さず、最初からいなかったかのように、綺麗さっぱり姿を消す。冬になるとやってくる、白鳥と似ている、と思い、ネットで調べてみると、蜘蛛は夏の季語なのだそうな。身をもって言葉を体験した。僕は、昔の人と同じような体験をしているのだろう。
 
 窓が好きなのかもしれない。不意に思い当たる。僕は自分の部屋の窓の近くで電子煙草を吸う。窓の近く以外では吸わない。電子煙草を吸いながら、窓の外を見ている。景色はいつも変わらない。大きい道路に車が並んでいるところ。遠くのマンションや物流倉庫。歩道の並木。今の窓から見える景色も、前の窓から見える景色も、僕は覚えておきたいと思う。

 夏は、窓にカメムシがくっついていることがある。ダークグレーの、いかつい体格のカメムシ。僕はそいつを見るたびに、驚きで息を飲む。カメムシはエアコンの効いた部屋に入りたいのか、のっそり歩いてくる。慌ててゴミ箱から使用済みの割り箸などを引っ張り出し、格闘が始まる。僕はカメムシを突いたり、足を払ったりして窓の外に落としたい。しかしカメムシにも野生で磨いた胆力がある。容易には怯まない。むしろ刺激を受けた分、歩みが速くなったりする。最悪なのはカメムシが飛翔することだけれど、幸いそのような事態になったことはない。僕の決死の攻撃によってカメムシは足を踏み外し、窓の桟から落下する。そして「ばららぶーん」と、勢いよく羽を広げ、飛んで行く音が聞こえる。
 
 もう秋だから、窓から虫も入ってこない。すずしくてさみしい匂いの空気が入ってくる。風が流れる音が聞こえる。だから僕は、窓の近くにいると、どこかへ行きたくなる。