すごく話したいわけではないが、すこし話したいこと。
失くしものは、探すとみつからない。
探すとみつからないので、探さずに放っておくと急に出てくる。
ものを探す、という人間のモードは、視野を狭めるみたいだ。
岡目八目という言葉もある。
当事者よりも、関係のない第三者の方が、よくものが見えている、という言葉だ。
スポーツの試合などを見ていて、「あの選手はああいう風に動けばいいのになあ」と、観ている方は思う。岡目八目である。
ゲームをして、失敗ばかりしている人を見ると「もう、俺に貸してみなさい」と思う。岡目八目である。
眼鏡をおでこにしているのに、眼鏡を探している人を見て「でこにあるよ」と言う。岡目八目である。
岡目八目とはつまり、ものを探さない心の在り方である。
よい人間になろう、と思ったら、むしろよい人間のことを忘れた方が、よいのかもしれぬ。
ところで、私は今日、手紙を出そうと思って、ポストを探していたのだが、ポストというのは探すと全然みつからない。
しかし、探そうと思わなければ、背景に溶け込んでしまっているので、余計にみつからないものである。岡目八目が通用しない相手かもしれない。
目を皿のようにして、偵察兵のように注意深く夜の街を見渡し、ポストを探して歩いていると、農協の入口の横に、忽然とくそでかい赤いポストが現れた。
今まで何回も通った道なのに、この瞬間まで、ポストがあるということに気がつかなかったのだ。
そして、一度気がついてしまえば、もう忘れることはできない。
ポストを発見するという経験は、不可逆的なものなのだ。
まるで、恋のようなものだ。
まるで、恋のようなものだ……じゃないんだよ。
私はそういう、ちょっとかっこつけた句読点の使い方が、おかしくて笑ってしまうので、キャッチコピーみたいで滑稽でお好きなので、ついやってしまうのだ。
句読点といえば、一時期、句点を三点リーダのように使う人が結構いましたね。。。
あれは一体、どういう根拠があって、ああいう使い方になったんでしょうか。。。
今でもたま~~に、あの時の使い方をしている方がいらしって、なんだかノスタルジックな気持ちになります。。。
100円ショップで買った300円のランタンが壊れた。
壊れた、というよりも、機能が縮退した、という感じなのですが、オレンジの炎のような光り方と、白い蛍光灯のような光り方の二種類を選べるスイッチの不具合で、オレンジの炎のような光り方しかしなくなった、秋。
炎灯はふいんきがあるけれど、本が読みにくいので、むしゃくしゃして、私はついランタンの火屋(ほや)をむしり取って、中身を出してしまいました。中身はなんというのか、トイレットペーパーの芯のような円筒に、とても小さなLEDランプが埋め込まれているという設計で、もう、とてもランタンとは呼ぶことのできない、無機的な、レトロSF的な変な光を放つ不気味な棒になってしまいましたので、新しいランタンを買いました。
でも、300円のランタンの初期不良には、懐かしい苛立ちがあって、それはそれですこし愛おしいような気もします。
ぼくがこどものころの商品は、こういうばかみたいな不良がまあまあの頻度であったように思い出されます。
だからぼくたちは失敗しないように、こわれなさそうなものを選んで買ったものです。
しかし今はどうでしょうか、大抵のものが、そこそこ安値のものでさえ、不足なくうごくように思われます。
すぐしんでしまうひよこや、すこしくさっているたべものや、たまのでないけんじゅうや、ちくちくするふくや、そんなたくさんのがっかりやかなしみを、あのころのぼくたちは、ふぞくひんとして手に入れていました。
しそにんにくという漬物がものすごくおいしいのですよ。
などと書くと、私は子供の頃、花なんてまったくこれぽちもおもしろくないものだと思っていたこと、歴史の一部として認識します。
生きている年月が長くなると、感覚がみるみる変化してゆきます。
身体をめぐる諸行無常。心をめぐる輪廻転生。
いいにおいが好きになったり、やわらかいものに幸福を感じたり。
毎日すこしずつちがう私です。