趣味ではない

 ぼくはラジオを聞く。
 月曜日は伊集院さんの深夜の馬鹿力があるし、あのちゃんのオールナイトニッポンもある。
 ぼくはラジオを聞くけれど、ファンではないし、趣味でもない。ラジオが好きかと言われるとすごく好きだというわけでもない。ときめいたりも大笑いしたりもしない。けれど気がついてみると毎週聴いている。朝、通勤電車の中でラジコを使って聞いている。ひそかな楽しみであり、ほんのすこしだけの楽しみでもある。ラジオが趣味というわけでもない。最後まで必ず聴くわけでもない。生活音の一部であるようにさえ感じている。そのようなふんわりとした楽しみだからこそ欠かすことがないのかもしれない。土曜日はオードリーのオールナイトニッポンがある。毎週聴いている。クリーピーナッツは終わってしまった。しかしadoのオールナイトニッポンもあるし、霜降り明星オールナイトニッポンもある。ぼくはラジオを聞く。ラジオを聞きながらラジオを聞いていないこともある。何も聞きたくないからラジオを聞くことがある。何かを得ようとしてラジオを聞くこともある。ぼくはラジオはすごく古い文化だと思う。時代遅れのメディアだと思う。でもそういうことはどうでもいいと思う。ぼくがラジオを聞くのはラジオを聞くことが習慣になってしまっているからで、それ以上の意味は特にないと思う。そして習慣になってしまっているという事実自体が、ぼくにとって最適であるということを意味していると思う。ラジオはぼくに合っているということを意味していると思う。ぼくはラジオを聞く。朝、目覚めて風呂に入り、それからすぐにラジオのことを考えている。今日は誰の番組を聴くんだったかな、と少し考える。そして耳にイヤホンをして窓際で電子煙草を吸う。ぼくはラジオを聞きながら家を出る。ラジオは生活の一部になっている。ぼくに最初のラジオを教えてくれたのは父で、2回目にラジオを教えてくれたのは車で、3回目にラジオを教えてくれたのは会社の先輩だった。ラジオというものは目に見えないし、現代で生活しているとほとんど存在感を感じないないものだから、誰かに教わることでしか認知することが出来ないのではないかと思う。ラジオというものがある、そしてラジオにはラジオの楽しみがある、ということを誰かが改めてはっきりと教えてくれなければ、存在を認識することが難しいように思われる。ぼくはラジオを聞く。しかし会社の先輩がいなくなってしまった今となっては、ラジオを聞いているという話を誰にもすることがない。番組についての会話は日常生活で一切発生しないし、そもそもラジオを聴いていますという人には会ったことがない。ラジオを聞いている人は、ラジオを聞いているということを人に話したりしない人達なのかもしれない。ぼくがそうであるように。ラジオというものは内的な楽しみなのかもしれない。特に、ラジオが生活から姿を消した現代では。共有することができないひそかな、ひそかにならざるを得ないような状況の中で、ぼくはラジオを習慣として聞いている。ラジオは趣味ではない。しかし、ぼくはそれでも毎朝かならずラジオのことを考えている。そしてラジオを聞いているしばらくの間は、ほんの少したのしい。誰にも共有できないひそかな楽しみの時間が、時には無駄ではないかと思うことがある。その時間をもっと有効に使うことができるのではないかと思うことがある。しかし結局のところ、ぼくはラジオを聴いている。あしたもラジオを聞くだろう。ぼくはラジオというものがこの世から消えてしまっても、きっと大丈夫だと思う。なくなったらすこしさみしいけれど、それはそれでかまわないと思っている。おそらくすぐにラジオの代わりをみつけることができるだろう。エンタメならくさるほどあふれているよのなかだ。しかし、それでも、ぼくはラジオを聞いている。そういうラジオのあり方が、ぼくはすきだ。