あたたかいズボンが欲しい

 あたたかいズボンが欲しい、私の部屋は凍えるような冷気で満ちている、まるで棺の中のように……肉体的な欲求を感じる時、いつもファーブルのことを思い出す。昆虫記を書いたあのファーブルのことだが、私が思い出す彼はマンガ絵の青年であり、彼は貧乏だった。伝記の中の逸話に、空腹に耐えながら、パンを買う金で本を買った、というエピソードがある。腹減ったなあと思いながら、暗いランプの灯りを頼りに、ファーブルが本を読んでいるイラスト。いかにも子供向け伝記シリーズにありがちな清貧のイメージというか、要するに即物的な欲求より高次の知の欲求を優先させる性質こそ後の昆虫王ファーブルを生んだのです的な、高邁であること、というよりも私に訴求したのは、彼の愛・集中力、「好きなもの」への激烈な希求、肉体的苦痛を凌駕するほどの「狂い」ではなかったか。すっごく好きなものがある人間に対する純粋な憧れ。そういうものを素直に肯定したい気持ち。そんなことを思い出します、あたたかいズボンが欲しい、冬の夜に。
 しかしまあ、私はファーブルではなく、一個の人間男性としての外黒某。自分のことは自分で決められる意志を持つ一塊の肉と骨と血の集合体として行動を続けてきたものであるから、仕事帰りにホームセンターへ行き、紳士服売り場に吊るされた無数のズボンを手に取っては生地の厚さを一枚一枚確かめていくという、涙も凍るほど生活の厳しさを重ねた所業を己から俯瞰してしまうものの、このうすら冷たい日常のボトムを支えるつましさもいつか伝記になるのかもしれないと思い、一番生地の厚そうなズボンを一枚、大切そうに抱え、レジに持っていく……そんな男のくたびれた背中に滲む哀愁を誰かマンガ絵にしてください。
 先日、友人某と酒席を設け、遠方より来たる友と、それなりに近い地に住む友と酒を交わし大いに交歓したのだが、その時にふと「お前は孤独に慣れ過ぎている」と言われたことが、折に触れ思い出され、その言葉をたびたび吟味しています。負の感情があるわけではなく、それが本質的に私の何を言い表していたのか、ということを、つまり、私にはその言葉を賜るにふさわしい実感があるということなのですが、「お前は孤独に慣れ過ぎている」を、より深く理解するために、みずから証拠を集め論を固め、納得しようとする心の働き。ファーブルは虫に狂っていた男だ。セミはあんなにうるさく鳴くけれど、耳が聴こえるのだろうか、と考えた彼は、ある日大砲を借りてきて、ぶっぱなした。セミは大砲の音にはなんの反応も示さなかったので、ファーブルは、セミは耳が聞こえないと思ったのだった。この実験はたぶん有名な話なのだが、私はその実験の価値よりも、ファーブルのイカれた感性の方に好感を持つものである。「お前は孤独に慣れ過ぎている」という言葉を、私はあらゆる角度からたしかめている。
 冬で乾燥が激しくなってきたためか、顔の皮膚が白くかさかさになる日があり、乳液を塗っても解決せず、狼狽をした。久方ぶりにマスクをし、顔を隠してみたが、冬のマスクは意外に顔が暖かく、何かほっとする効果があるようだった。その懐かしい感触に、何か身のひき締まるような気持ちもある。
 一日一日、なんとか生きている。激しい疲労と気持ちが萎え散らかしていることと痔と、持ち前の不眠と、そういったものを抜かせば概ね私は健康だった。ここ最近は風邪もひかず、ルエンザにもかからず、コビッドにもかからず、手術も事故もなく、そう考えるといかにも健康体で、同輩と比してもそれなりに元気と言えるのだが、実感としては日常を這いずっている。